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【第12章】 良き夫婦・家庭関係を育てる——家庭を「心の安全基地」にする


◆この章でお届けしたいこと: 夫婦や家族の間でも、条件付き愛情や支配を再生産しないために、家庭の安全基地づくりについてまとめておきます。

1 夫婦間にも条件付き愛情を持ち込まない

 毒親家庭で身についた癖は、夫婦関係にも持ち込まれることがあるかもしれません。
 何か相手にとって価値のあることを提供したら愛される。
 そうでなければ、嫌われる。
 体調が悪かったりしても、体の関係を許せば、愛される。
 体調が悪くても心が苦しくて、体の関係を拒めば、嫌われる。
 そういったことって、損得だったり打算的だったり、相手を都合の良い物体として見ていたり、相手に配慮してあるがままの相手を受け入れられていないのかもしれませんよね。
 でも、条件付き愛情って、条件を満たせば愛し、満たせなければ愛さなかったり、露骨に機嫌を損ねてきつくあたったり、相手をけなしたりして、同じ人権ある人間同士の関係というより、取引・交渉・DV・性暴力みたいな感じかもしれません。
 そんな夫婦間のやりとりを子が見れば、それが家庭での夫婦関係と思ったり、子として親に愛されたりするためには、条件を満たせるようにしなければ愛されないと思いかねません。
 逆に、条件を満たせなかったり、何か成果をあげられなかったりすると、子が、自分は価値のない人間と思い込んでしまうかもしれません。
 金の切れ目が縁の切れ目、とか、病気やケガをして復職できなくなったら用済みとして家族から排除されるとか、条件付き愛情って、非常に過酷に冷徹な関係を招きやすいかもしれません。
 そういったことは、自分の調子や都合が良ければ、そんなことは気にしないのかもしれません。
でも、自分の調子や都合が悪くなった際に、逆に、家族から排除されたり、縁を切られたりした際に、進んで快く素直に受け入れられるでしょうか?
 毒親を見ていると、自分の調子や都合の良い時だけ、相手に過酷な対応を強いる一方で、自分の調子や都合が悪くなって不利な状況になると、相手の良心を揺さぶって、条件付き愛情で人間関係をとらえるなんて、とんでもないことだろ!と責め立てたりしがちかもしれません。
 そんな、調子や都合が良い時だけ仲良し家族で、調子や都合が悪くなると険悪家族、という状態って、安心できる家庭ですか?
 「これをしてくれたら愛する」
 「思うようにしてくれないなら冷たく扱う・排除する」
 「期待に沿わないなら罰を与える」
 こういった、毒親のもとで経験した家庭内の愛情獲得ディールが、夫婦関係に形を変え、子にも負の影響を与え、家庭内が安心できない環境になってしまうこともありそうです。



2 「勝ち負け」より、愛情を優先する

 夫婦間でも親子間でも、時に、正解は1つとは限らず、どちらにも一理あるケースもあり得ます。
 家事・育児・お金の扱い・地域社会でのお付き合い・学業・仕事・災害対策やその備えなど…。
 相手を言い負かしたら勝ち
 でもありません。
 相手に譲ったら負け
 でもありません。
 勝ったか負けたか以上に大切なのは、相手への愛情があるかどうかです。
 相手にとって最善の結果がもたらされなければ、立派な理屈であっても、その主張が毒になり果ててしまいかねません。
 愛情を最優先にした時、夫婦間や親子間の言い争いは、勝とうが負けようが、相手にとって最善の結果をもたらしてくれるなら、それで十分なのです。
 私の記憶が正しければ、たしか、「大岡政談」の中の「大岡裁き・子争い」という、むかしむかしのお話しの一節として、こんなお話しを聞いた覚えがあります。
 名奉行の大岡越前が裁く裁判で、偽の母と本物の母が、一人の子をめぐり、自分が本当の母親だと言って互いに譲りません。
 調べを尽くしても、どちらも、本当の母親のような、そうでないような…。
 そこで、大岡越前は、偽の母と本物の母のふたりに、その子の手を引っ張って、力勝負で勝った方が本当の母親とする、という、勝ち負けでの判定をするというのです。
 そこで、子の両手を、片方は偽の母、もう片方は本物の母が、力いっぱい引っ張りだすと、子は両手を力ずくで引っ張られて痛くてつらくて泣き叫び始めました。
 すると、本物の母が、我が子の泣き叫ぶ姿に心を痛めて手を放し、偽の母が、その子の両手を引っ張りあう勝負に勝ちました。
 その時、大岡越前がその様子を見て一言、こんなことを言ったそうです。
 本物の母親ならば、我が子が泣き叫ぶ姿を見て心を痛めるはずで、子が泣き叫んでも、最後まで、その子の手を力ずくで引っ張っていた方が、偽の母だろう、と。
 かくして、力ずくで子を引っ張って泣き叫ぶ争いに、負けた方が、本物の母と大岡越前は裁いた、といったお話しだったように記憶しています。
 「偽の母」を毒親に置き換えてみると、勝つか負けるかはどうでも良いほど、子を愛せているか、ということが大切だと思わされるお話しの一節のように感じられます。
 勝つことが大切というより、勝ち負け以前に、相手の最善を願うこと・相手を愛すること・愛して相手の多様性や個性や価値観や可能性を尊重して受け入れることなどが、最優先で大切なことなのだと思います。
 勝ち負けにとらわれ、勝てば官軍とか、負けたら服従せよとかではなく、相手に最善・愛情優先で物事を見つめてみませんか。



3 「自分は支えてもらえなかった」を、「支えない理由」にしない

 配偶者や子が、病気や仕事のストレスで弱っているとき、
 「自分はもっと大変だったのに」
 とか、
 「自分は支えてもらえなかったのに、自分だけ支える側…」
 などと、悲嘆にくれることがあるかもしれません。
 そんな時、ふと、これまで自分は支えてもらえなかったのだから、自分だけ支える側になるのは、「不公平」ではないか…。
 そんなことを思っても、不思議ではなさそうです。
 でも、そんなちょっとしたところに、「毒親再生産ループ」のワナが潜んでいるかもしれません。
 ちょっとした「復讐心」が芽生えて、これまで支えてもらえなかったのだから、自分が今の家族を看病せず放置していても「正当」なことだ、という感じかも…。
 こういったことも、復讐心や不公平感にとらわれ、自分の言動を正当化して、毒親の負の影響を延々と引き継ぎ、配偶者や子にその影響をバトンタッチしてしまっているのかもしれません。
 医療・治療が必要なのに、受診させないとか受診につなげないといった医療アクセスを閉ざすことは、人権上の問題でもあり、また、ひとつの虐待として問題ある対応です。
 自分が支えてもらえなかったつらい経験があるからこそ、今の家族では、支えが得られて安心して安全に過ごせる家庭を築いていく…。
 これが、毒親の負の連鎖や、あなたが毒親になり果て、さらに、あなたの影響で子も毒親へといざなう「毒親再生産ループ」を、あなたが支えることを通じて断ち切る第一歩です。



4 家庭に「修復の習慣」をつくる

 人間は感情豊かな存在で、まばゆい笑顔もあれば、時に、一時的に、怒ったりする時もあれば、機嫌が良くない時もあります。
 誰しも、完璧に、一瞬たりとも感情を揺るがせずに、心を一定に保てるわけではありません。
 毒親でもそうでなくても、良い家庭にもそうでない家庭にも、多かれ少なかれ喧嘩はあり得ます。
 強烈な喧嘩を子の前で繰り広げ続けることや、そういったことが頻繁にある場合は、虐待にあたり得るので注意は必要です。
 ただ、温厚な人間でも、一時的に、怒りを示すことはあり得ます。
 ただ、良き家庭を目指す上では、喧嘩や対立があっても、関係修復への対応や、異論を危険なく示せる、といったことは、家庭が心理的安全性に包まれていないとできないことでしょうから、一概に悪いこととは思えません。
 「昨日は、配慮に欠ける言い方をしてごめんね」
 「そんな意図はなかっただろうけど、あの言葉は傷ついた」
 「お互いの幸せに向けて、次は工夫してこうしていこう」
 などと、異論があっても、危険なく示せて、関係を修復できる家庭であればいいと思います。
 先に謝った人が負けとか、相手に謝らせたから勝ちとかではありません。
 異論や喧嘩においても、そこに、無償の愛情や、条件付きでない愛情が、心身の危険がなく存在するかどうか…。
 異論や喧嘩も、家庭での人生の一部として、プラスに転じていけるかどうか…。
 「相手と異なること」が明確になっても、家庭を共生社会のひとつとして、多様性を公正公平に尊重して受け入れあっていけるかどうか…。
 そういったことが、乗り越えて一層の家族の絆を深められるか、それとも、毒親家族を築いてしまう方向に進むか、ひとつの分かれ道かもしれません。
 先に謝った方が負けではなく、先に謝った方が、修復に先に動き家庭の安全を守るリーダーシップを取った人なのです。

◆ 「心の安全基地」とは、失敗しない家庭ではなく、失敗しても危険がなく、話し、修復していける家庭です。



5 家庭の「心理的安全性」は、甘えではない

 心理的安全性のある家庭は、凶暴なことや違法行為など、何をしても許される家庭というわけではありません。
 これまで安心して安全に過ごせた家庭で、暴力事件が起こったとしたら、それは、これまで心理的安全性が保たれていたけど、損なわれてしまった家庭、ということでしょう。
 また、そういった場合は、家庭での心理的安全性を早急に回復するために、警察への通報や児童相談所への通報など、危害を加えるのではなく、安全性を高めるために必要とされる「制裁」を、毅然と淡々と発動すべきでしょう。
 法令上も人権上も、お互いに、個性・多様性・価値観・可能性を公平公正に尊重して受け入れあいながら、異論を述べても、失敗しても、危害を及ぼされたり人権を侵害されたりしない家庭が、心理的安全性ある家庭ということになると思います。
 家庭の心理的安全性は、甘えではありません。
 愛情表現のひとつとして、親子や夫婦で甘える言動はあっても、同じ人権ある人間同士の家族が、「ちょっと甘えただけ」という正当化で、人権侵害や法令違反を犯すことは、家族であっても許されません。
家族が裁かず、裁判所で裁いてもらう問題です。
 「それは、家族として危険だから、やめてもらいたい」と、危険な行動を制止してもらうよう依頼したり、緊急措置としてやむなく制止したりすることと、「そんなことを考えるあなたはダメだ」と、人格攻撃や尊厳を損なうこととは異なります。
 甘えるなら、正当化や負うべき責任を不当に免除されようと甘えるのではなく、夫婦間でイチャイチャしたりとか(相手に嫌がられなければですが…)、親子間で微笑ましい甘えとか、相手を大切に思う気持ちをもとに、楽しく甘えられるといいなぁ、と思ったりします。



6 家庭環境にも「定期点検」を!

 工場や会社の機械には、定期点検があったりするのに、家庭には、定期的に良い状況かそうでないかをチェックする仕組みって、あまりなさそうな気もします。
 というか、何か問題が起きてから、どうしようかと右往左往したり、あわてて意図せずもめてしまったり…。
 日常的に、会話や食卓での様子などを通じて、家族の抱えている悩みや不安や問題に気づければ良いですが、忙しい時や自分に余裕がない時などは、必ずしも、早めに異変に気付けるとは限りません。
 仮に、月に一度でも、
 「最近、何か困っていることはないですか?」
 「悪気はなくても、やめてほしいこととかないですか?」
 「何か、気になっていることはないですか?」
 などといった感じで…。
 特に、大げさに定例会議みたいにしなくても、何気ない会話の中で、さらっとチェックしてみる時間を持てれば、ちょっとしたズレが生じていたとしても、自分も相手もお互いに幸せになりあえる方向へと、なるべく早めに軌道修正しやすくなりそうです。

◆ 今日の一歩:家族で食卓での何気ない会話みたいな感じででも、5分でも10分でも、「最近、うれしかったこと・困っていること・相手に変えて欲しいこと」などを、気負わず話せる時間を設けてみてください。結論うんぬんよりも、まず、安心して、危険なく、あるがままに、思っていることを正直に話せることが最優先です。





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