『がんと心のリゾート: がん患者のメンタルケアと闘病を支援する家族の視点』

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第1章 突然、「がん患者の家族」になった

1 健康自慢だった妻

 おうち入院カルテをもとに――「健康自慢」が突然崩れた日
 妻は宮崎県で看護を学び、上京後は産婦人科や手術室などで看護師として働いてきました。結婚後は一児の母となり、幼稚園のPTA活動や大学での看護教育にも関わり、コロナ禍の2020年には4年制大学へ社会人編入して学び直していました。そんな妻に、2022年4月、39歳で大腸がんが見つかったのです。
 「患者さんを支える側」にいた看護師の妻が、突然「患者の側」になりました。
 特に、オペ室勤務などで重篤な疾患などを目の当たりにしてきたり、医療の知識があることは、ある場面では安心材料になるかもしれませんが、知っているからこそ悪い予想が鮮明にできてしまう怖さもあったようです。
 私はそのとき、妻の「がん」と同時に、妻の中で始まっていた「心の危機」を、最初は十分には見抜けていませんでした。
 妃美ちゃんは宮崎県で育ち、看護学校を卒業して上京し、看護師として働いてきました。
 産婦人科や手術室など、患者さんの命とダイレクトに向き合う医療現場を経験してきた最愛の妻です。
 東日本大震災の翌年(2012年)、災害時支援ナースでもあった妻と、災害対策に関するご縁もあってか、私たちは出会いました。
 出会って二回目のゴルフレッスンデートの時に、お互いに「一緒に幸せになっていけたら」と考えるようになり、横浜赤レンガ倉庫の海の前で、振り返るとすごく気が早いのでしょうが、私は妻に「お互いに幸せになりあえるように一緒に生きていってくれる?」とプロポーズしました。
 唐突なプロポーズにもあわてず、妻がOKしてくれたおかげさまで、大安吉日に入籍し、同居して結婚式を挙げ、その後、息子にも恵まれました。
 妃美ちゃんは息子の母として家庭を支えながら、大学の非常勤講師として看護を教えたり、コロナ禍の2020年には、一念発起して4年制大学へ社会人編入して学士号取得に向けて学び直したりしていました。
 仕事、子育て、学び、お酒の楽しみ、ファッション好き。
 妻は、忙しくてもバリバリと、非常に精力的に動ける社交的な人です。
 そんな妻にとって、39歳でのがん告知は、妻の中にあった「自分は無茶をしても元気で病気もしない」という思い込みというか、健康への絶対の自信が一気に崩されたのかもしれません。


2 長すぎる週末

 おうち入院カルテをもとに――病院の自動ドアをくぐった時
 内視鏡検査は金曜の午後。「ご家族を呼んで下さい」と言われ、近くの駐車場で待っていた私は病院へ向かいました。麻酔の影響を考えて家族同席でのありきたりな説明なのだろう、健康自慢の妻だから何か拍子抜けするようなオチがあるのではないか――そんな、今思えばのんきな気持ちも少し残っていました。診察室で画像を見た瞬間、医療従事者でない私にも分かるほどの塊が…。衝撃的なひとときでした。
 帰りの車内で、妻は泣き、叫び、私は何と言えばいいのか分かりません。ただそばにいて、紹介状をもって大学病院に行く週明けの月曜日が、一刻も早く来てほしいと願っていました。金曜日から月曜日までのたった3日ほどが、その時ほど何光年も先であるかのように長く感じられたことはありません。
 夫メモ: 危機の初期には、「正しい言葉」を探しすぎるよりも、相手をひとりにしない・そばにいる・手を握る、といったことしかできない時がある。あの週末の私は、まさにそんな感じ。
 大腸内視鏡検査で、妻にがんが見つかったのは金曜日の午後でした。
 検査を受けたクリニックで、大学病院への紹介状や検査画像のデータなどを封筒で渡され、週明けの月曜日に受診できるよう、大至急で手配したと医師から伝えられました。
 たった3日ほどのはずなのに、その週末はとてつもなく長く感じました。
 妻は泣き、私は「何とか大丈夫だ」となぐさめたいような衝動にかられました。
 しかし、医療従事者でもない私が、何の根拠もなく「大丈夫」と気休めに言って、妻のためになるとは思えませんでした。
 私はただ、そばにいて、涙をふくティッシュを渡し、ただ、ひたすらずっとそばにいて、手を握って、背中をさすったりしながら、妻の涙や言葉や悲しみを、すべて受け止めるくらいしかできませんでした。
 月曜日の早朝、私たちは車で大学病院へ向かいました。
 妻が看護師だったこともあり、朝一番に、しかも、なるべく早めに紹介状一式を持って行くこと、必要な検査をその日にできるよう朝食を抜いておくことなど、できる範囲の準備をしました。
 病院には同じように紹介状を持った患者さんが、初診受付の列に並んでいました。
 受付を終えても待つ。
 診察室の前でも待つ。
 検査でも待つ。
 私はその時間、頭の中で何度も「もし妻のがんが手術適用でなかったらどうしよう…」という、悲劇のようなワンシーンが頭に浮かんできそうになるたびに、それを必死に打ち消して、少しでも希望の光を見出し続けようとしていました。
 今は、昔と違って、がんは治療できる病気。
 今、ここで悪い想像をしても病状が良くなるわけではない。
 悪い想像をするくらいなら、その間に、少しでも希望の可能性が高められないか考えた方がずっといい。
 そう自分に言い聞かせながら、不安に押しつぶされそうな妻をそばで支えるためにも、心を少しでも平静に保とうとしていました。

 検査を重ねた後、永遠に開かれないのではないかとすら思わされた、長い待ち時間の末に開いた診察室のドアの先で、主治医の先生から

 「手術で治していきましょう」

 と説明を受けました。
 その手術が適用となった一言に、妻も私も堰を切ったように、不安と緊張でピンと張り詰めた糸が切れたかのように泣きました。
 がんが見つかったことは変わらないのに、手術という道が見えただけで、暗闇に一筋の細くても、たしかに明るく輝く光が差し込んだように感じました。


3 息子には「小さな大人」として話す

 おうち入院カルテをもとに――寝る前の「パパお話しタイム」
 小学生だった息子には、病名も見通しも、できるだけ隠さず、ただし怖がらせすぎないよう言葉をかみくだいて、具体的な生存確率なども、同じ人間どうしの対話として話しました。幼いころから続けてきた寝る前の「パパのお話しタイム」も、いつも以上に大切にするようにしました。人体の図鑑を一緒に見ながら、病気や身体の仕組みを理科の学びの流れでも理解できるようにも配慮。退院後、息子が妻のことを思って、私に涙を見せないようにしてひとりで泣いたことがあったと後で知りました。「がん」という言葉は、子どもにとっても大きいものです。家族の闘病は、患者本人だけとか身体の細胞だけとかといった出来事ではなく、家族みんなの心身の取組みなのだと思います。
 入院と手術までの2週間、私たちにはもう一つ大切なことがありました。
 当時、小学生の息子に、がんや入院や手術について、どう伝えるかです。
 私は、「子ども」だから何も知らせないというやり方は選びませんでした。
 もちろん年齢や言葉を受け取る際の心理的なダメージなども勘案して、やさしくかみ砕きながら言葉は選びましたが、一人の「小さな大人」として、ママの身体に病気が見つかったこと、病院で手術を受けること、先生方が治療してくださることを、包み隠さず話しました。
 幼いころから寝る前に続けていた「パパのお話しタイム」も、いつも以上に大切にしました。
 小さいころは私が即興で「創作昔話」を作ってお話ししていましたが、成長すると息子の方が出来事を話したり、悩みを相談してくれたりする、とても大切な親子の対話の時間になってます(息子が中学生になった今も続いています)。
 息子は一見、落ち着いていました。
 しかし、後になって、息子が入院中の妻を思って、息子がひとりのときにママのことを心配して泣いていたと知りました。

 病気は、本人だけに関わる出来事ではないのです。

 家族全体の景色を変える、とてもインパクトの強いものなのだと感じました。
 だからこそ、私は、妻だけを見て寄り添ってケアするだけでなく、息子の心のケアも寄り添いも見守りも、置き去りにしないようにしたいと思います。

 妻の治療と、息子の生活。

 どちらも同じ家族の大事な人生の一部です。
 この時の私は、スムーズに、がんの手術の日を迎えられるよう、準備万端にできるよう一生懸命でした。
 しかし、妻の心の中では、すでに別の嵐が訪れつつあったのでした。