書籍『毒親を反面教師に、幸せな家庭をつくる』先行オンライン公開版(無料版)




JMRIお目当てサーチ(キーワードで弊社サイト内のお目当ての情報を検索できます)



書籍PDF一括ダウンロードは下記表紙をタップ/クリック



【第10章】 反面教師として「良き親」になる——子の成功体験づくりを支える


◆ この章でお届けしたいこと: 毒親を反面教師にして、子育ての知恵へと変えていきましょう。親の成功体験の押し付けではなく、子自身の成功体験を支える親へ…。

1 良い親とは、間違えない親ではない

 毒親のもとで育った子が、今度は親になって子育てする際、つい、自分の親の言動を無意識の内にマネしていたり、再現しがちだったりします。
 また、気を付けながらも、「自分も毒親と同じことをしてしまうのでは…」と、不安になることもありそうです。
 その不安は、むしろ、毒親になるのを避けるための、良いセンサーというか、客観的に暴走を防ぐ安全装置になり得ます。
 良い親とは、いつも正しい親ではなく、間違いに気づき、謝り、修正できる親だと思います。
 親も人間で、間違うこともあれば、不安なこともあり、完全無欠ないつも正しい存在ではありません。
 人生経験の少ない子の方が、親よりも、問題を見抜いていたり、大切なことを理解していたりすることもあります。
 年齢・性別・実績などに関わらず、親とか子とかの区分に関わらず、誰が正しいかということより、何が正しいかを優先し、間違えていたら、親でも子でも、ちゃんと誤り改めればいいのです。



2 子を「小さい大人」として尊重する

 子どもは大人と同じ法令上の責任能力などを持つわけではありません。
 しかし、国際規約上も、当然ながら、親も子も人権ある人間同士です。
 成長や精神的な状況に応じて守り、教えることがありながらも、子は親の言いなりに従うべき存在ではなく、親も子も、それぞれ、個性・多様性・可能性や価値観が異なる存在です。
 子どもだからこうしておけ、とか、「子どもらしくこうしておけ」という、同じ人間同士のはずなのに、「子ども」の限界や程度を親の歪んだものさしに勝手に当てはめないようにしましょう。
 子も、親と異なる意見や価値観や感想を抱いて当然ですので、「これはどう思う?」「どっちがいい?」「嫌だったら言ってね」などと、子(相手)を尊重する対応の方が良いでしょう。
 私は、息子が幼い頃は、息子を「小さい大人」と呼びました。
 もしかすると、「小さい大人」という呼び方では、息子に失礼だったかもしれません。
 「小さな哲学者」と呼ぶべきだったかもしれません。
 私よりも、ずっと、人生について、生や死について、考えていたようでもあり、子育てや家庭を築く上での大切なことを、わつぃに教えてくれた「先生」でもあります。
 今は、身長は息子の方が私より高いですし、心の広さも私よりもずっと大人です(小さい大人という言葉は、今は、あわなくなりましたので、普通にひとりの大人として接しています)。
 私の考えと異なる意見を言っても、誰も怒りませんし、いいところに気が付いたね、そのアイデアは素晴らしいね、そんな工夫の仕方もあるんだね~、などと、異なる意見を安全な環境で安心して示すことを、「対話」や「交流」といいます。
 毒親が、子から異なる意見や異論を述べられると、毒親が勝手に人格否定されたとか、攻撃的な態度だとか、反抗するならもう~しない、などと脅すのは、対話や交流ではなく、服従の「踏み絵」と「支配の確認」でしかなさそうです。
 親も子も、お互いを尊重し、異なる意見や異論や、多様な個性や価値観や可能性を、安全で安心できる環境で、公正公平に受け入れあって、心を開いた対話や交流ができるようにしていければ、それだけでも素晴らしい家庭になっていくと思います。



3 親の「成功体験」を再現させない

 親が努力して成功した経験は、その経験から得た知見や教訓などを、子に伝えられる貴重な知恵ではあります。
 しかし、親と子は別の人間ですし、親と子は別の時代に異なる社会状況のもとで生きています。
 また、親と子は、まったく同じ個性ではなく、得意/不得意も異なったり、好き/嫌いも違えば、価値観や何をもって成功や幸せととらえるかも異なったりする同じ人権をもつ人間同士です。
 親の成功体験から得られたエッセンスとして、親が知見や人生での教訓などを、今の社会状況や法令や生活環境に適応させて話すことは、押しつけでなければ、子にとって学びの要素はあり得ます。
 しかし、親が、自分がこうやって成功したから、と、親と同じ状況や苦境に子を押し付けあてはめて、同じ目に遭わせて、そこから親が勝手に「これが成功だ」というところを目指すよう仕向けるのは、毒親がやりがちなことかもしれません。
 「自分はこれで成功した。子も同じように成功するはずだ」
 という感じだと、子の自由な意志や希望や、個性・価値観・多様性や可能性を度外視して、親の成功体験の再現をムリやりやらせている状況に陥りかねません。
 親の役割としては、自分の成功体験をコピーさせることではなく、子が、自分の意志や希望をもとに、自分の力で自分の個性・多様性・価値観を活かしながら、可能性を高めていけるようにすることでしょう。
 子が、「自分なりの成功体験」で自信を高めたり、生きる力や活力や切り拓く力などを身に着けたりするのを支えることが、親にできる子を尊重し受け入れた状態での支援だと思われます。
 子を尊重して受け入れた上で寄り添う、ということではなく、子に近づき親の思うように支配し押し付ける、同じ近くにいても、寄り添うというより、近づいて突き飛ばす・ひれ伏せさせるという状況に陥りそうです。
 進路でもスポーツでも、子育てでは、主役は親ではなく子です。
 子が、「自分で多様な選択肢を自ら見つけて自ら選び、工夫し、試行錯誤し、失敗したり成功したりしながら、自分で取り組めたことでの学びや、できたという実感を得ること」が、自立心のある自律的な子を育むということなのだと思います。
 あれこれ指示を出しまくる割に、「それくらい自分で考えろ!」と怒り、自分で考えたら今度は「勝手にやるんじゃない!」と怒鳴ったりしていては、親が子を、指示待ち人間として育て、個性や可能性の芽を摘んでしまう状態に陥りそうです。



4 「子を輝かせる」より、「子が自ら輝く」のを曇らせない・邪魔しない

 親が子を「こう輝かせたい」と親の計画や想定や期待をもとに演出し指示し縛っていくと、子が、自ら輝く活力や魅力や自主性を、親が全力で損なってしまいがちです。
 「子に輝いて欲しい」
 ということと、親が親の想定や期待に沿わせて、
 「子を輝かせたい」
 は異なります。
 「子が、自ら、輝く」
 ということを、親としては、子のあるがままの輝きを邪魔しないこと、子に必要な環境を整えるお手伝いをすること、法令上や安全上の危険から守ること、そして、子が、みずから、進んで挑戦したいときに、子の背中をそっと後押しして差し上げるようなことで、寄り添って伴走しながら支援することが大切でしょう。

◆ 「あなたを私の理想どおりにする」ではなく、「あなたがあなたらしく育つのを支える」に転換する。親の都合や理解や期待ではなく、子の最善や価値観や「これが幸せだと感じる」ことを支える。そういったことが、親として大切なのではないかと思います。



5 「親の敷いたレールを走らせる」のではなく、子が自分で進みたい方向へのレール建設を手伝う

 私は、「パパ学校」の提唱者として、なんでもかんでも「学校が教えるべきだ」ではなく、家庭内での教育機能(主に社会教育の分野になるでしょうが…)を、母親任せではなく父親が率先して果たしていくようにしています。
 「パパ学校」では、父親は教師や先生ではありません。
 子は、父親の生徒や弟子ではありません。
 同じ人権ある人間同士として、父親であれ子であれ、お互いに学びあい、子から父親に、また、父親から子に、自分が知っていることや学びの要素を、共有して気づきや対話や交流を深める取り組みです。
 よく、「親の敷いたレールに子を走らせる」というご家庭もあるように伺いますが、「パパ学校」では、その真逆です。
 子の希望・関心・意志などに沿って、「これやってみたい」「これ学んでみたい」「こっちへ行ってみたい」という思いをもとに、法令上、手続きや契約で親・保護者の対応が必要なところは息子に代わって行い、息子の進みたい方向にレールを敷くお手伝いをしています。
 親は未経験の、息子の個性や関心ならではの歩みもあります。
 特に、私も妻も、音楽の世界には疎いのですが、息子の興味・関心・希望や意志などから、息子が小学生の頃には、息子が自ら小学校にある吹奏楽部(部活)の体験に行って、テューバを希望して担当することになりました。
 小学校と中学校1年生の4月中までは、野球(中学校からは硬式のクラブチーム)で、吹奏楽と野球の二刀流でしたが、息子のスポーツ障がい(膝)や体調のため、吹奏楽に絞っていくことも、息子本人の希望・意志で転換しています。
 息子の野球の練習につきあい、やっと、中学になってから打撃フォームも非常に良くなって、高校はもしかすると、野球の推薦で入れるかも、という感じもしましたが、すべては、息子の希望や意志や決断を尊重しています。
 また、息子が中学校に入ってからは、テューバを本格的に深めていきたい、音楽大学の附属高校のオープンキャンパスに行ってみたい、という希望があって行ってみたりしました。
 中学1年生の段階で、親の進路とまったくことなる音楽大学への進学を目指したい、とのことで、息子本人の希望や意志を対話・交流の際に話してくれました。
 私は音楽の世界に疎く、「子を指導できない」としても、特に問題はありません。
 子に超越するのが親、ではなく、子に寄り添い支えるのが親。
 子の意志・希望などに沿って、人生を歩むお手伝いであるため、親が必ずしも子の進路のプロでなくていいですし、私にわからないことは息子に聞いたら教えてくれます。
 息子が法令上でできない対応は、親・保護者として、息子に代わって(法定代理人ですね…)、息子の歩みを支えるだけです。
 親が敷いた親の思うようなレールを子に走らせるのではなく、子が進みたい方向に、一緒に寄り添って伴走し、その子なりの個性や価値観や多様性や可能性を活かせるレールづくりを支える、ということを大切にしています。
 親には、人生でのいろんな経験はあるでしょう。
 しかし、その経験は、子にとっても正しく妥当な「唯一の正解」ではなく、経験から得られるエッセンスとして、学びの要素や教訓などが、ある程度は、子が学ぶ際の材料になる程度です。
 親の役割は、列車の運転席を子から奪うことでもなく、運転席に割って入ることでもありません。
 必要なときにともに地図を広げ、ともに危険箇所を考えて備え、ともに資材を用意し、行き詰まったときに安心して戻って心身を休めることができる「心の安全基地」でいることでしょう。
 親は、子の人生の所有者ではなく、伴走者に過ぎません。
 その距離感が、子の自律と親子の信頼を育むのです。



6 「心の花壇」は、鑑賞しても支配しない

 私は、毒親からは、幼い頃から今をもってしても、自分の価値観や物事の見方や興味をはじめ、自分が幸せだと感じることなど、心の中にそっと芽生える個性・多様性・価値観や可能性などの「心の花壇」を、ひたすら、根こそぎ爆撃され続けてきた感じです。
 自分の心に芽生えた大切な芽を、親(育ての父も生みの母もともに)が、「そんなものは価値のないつまらないものだ!」と、根こそぎ踏みつけて根絶やしにしたり、「そんな芽より、このタネを育てなさい」といった、価値観や思考の押しつけが激しかったりしました。
 そんな中で、子として、人間として、「心の花壇」で自分らしく芽生えた芽を、親に悟られぬよう、言動の表面上ではカモフラージュして、必死に「心の花壇」を守ろうとしてきました。
 それって、子として、自然な反応のひとつかもしれません。
 親から強烈な仕打ちを受け、親子関係で信頼感が損なわれると、子としては、親に内緒で大切なものを守ろうと努める…。
 逆に、「心の花壇」をともに愛でて、「どんな花が咲くか楽しみだね~」とか、「こんな育て方があるって聞いたよ」とか、支配ではなく、ともに大切にしあえるといいですよね。
 「パパっき~(私)の心の花壇で、こんな芽が出たよ」
 と、親も子も、それぞれの「心の花壇」を鑑賞して愛でて、お互いにそれぞれの芽を育て、花を咲かせたりしあう…。
 そんな感じになって、はじめて、本音で対話や交流をしてくれるようになるのだと思います。
 子の心の中には、親とは違う個性的な芽が育つことがあって自然ですし、親が理解できるか理解できないかは別として、子には子なりの趣味・進路・友人・価値観・好みの味などがあって自然です。
 よほど、大きな法令違反や安全上の緊急に重大な危機でもなければ、「心の花壇」に親が介入する必要はありません。
 「どんな花が咲くのだろう」
 「このお花は、こっちの花壇にないきれいなお花だね~」
 「このタネって、どうやって育てたの?教えてよ~」
 などと、見守ったりともに愛でたりする余白があって良いのです。
 親にも親の「心の花壇」があり、子にも子の「心の花壇」があります。
 相手の「心の花壇」を支配したり所有したりせず、助け合いながらも介入は最小限にして見守る…。
 そのような関わり合いのもと、家族は同じ色の花だけを咲かせて並べる場ではなく、それぞれの花が、それぞれの咲き方で、彩り豊かに咲き誇る「心の花壇」になればいいと思います。
 失敗するような際も、子を責めることなく、次の成功や達成につなげるには、どうしたら良さそうかなぁ~、とポジティブに失敗から学びを得るようにして、失敗するという大切な経験を、子から奪わないようにして差し上げると良いでしょう。
 失敗して、「ほら、見たことか!親の言う通りにしとけばいいんだよ!」とかではなく、また、失敗した子を見てほくそ笑むのでもなく、失敗をダメなことではなく、次の成功への学びとして、家庭の心理的安全性をもって失敗におびえなくていいという体験も、子が自ら人生を切り拓き歩む力となるでしょう。
 私は、「心の花壇」という言葉を、人権・多様性・個性・可能性などを、お互いに公正公平に尊重して受け入れあいながら、温かく育む取り組みとして、とても大切にしています。

◆ 今日の一歩:子に1つでも2つでも、興味や関心や好みでいいので、自由に自分で選ぶ場を差し上げてみて下さい。お菓子でも、おもちゃでも、散歩道で進む方向でも、「どちらがいい?」とか、「どうしたい?」などと聞いてみたり、選んだ理由も頭ごなし否定せず、価値を評価したりせず、子のあるがままに、尊重して受け入れてみましょう。





書籍TOPページに戻る