『がんと心のリゾート: がん患者のメンタルケアと闘病を支援する家族の視点』
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はじめに 手術は成功。でも、闘病は終わらなかった
「手術して治していきましょう」
数時間の待ち時間が永遠のように感じられた大学病院の診察室で、主治医の先生から、妻のがんに手術が適用となる一言を聞いた瞬間、妻と私は同時に涙があふれました。
当時、妻は39歳。以前は、看護師として病院で産婦人科や手術室なども経験し、家庭では一児の母として一緒に子育てをしながら、コロナ渦中に一念発起して4年制大学に社会人編入で、学び直しにも挑戦していたところでした。
妻は健康には人一倍の自信があり、時に、無茶ではないかと思うほどの飲酒量や、肉食ダイエット(肉ばかり食べて痩せる方法らしい)に走ったりして、夫として見ていて気が気ではなかったものの、いつも元気印で過ごしていました。
それが、2022年(令和4年)4月に、妻が何となく気になるからと受けた大腸内視鏡検査で、医療従事者ではない素人の私が見ても、はっきりとわかる腫瘍が見つかりました。
検査の当日、妻が医師から「ご家族を呼んで下さい」と言われ、早く終わったらスッと連れて帰れるよう、念のため早めに着いてクリニックの近くのコインパーキングで待っていた私は、妻からのスマホのメッセージを見て診察室へ向かいました。
正直なところ、そのときの私は、検査の麻酔の影響(健忘など)で説明を覚えにくいから家族を呼ぶのかな、健康自慢の妻のことだから最後には「大丈夫でした」という、どっきりサプライズ的なオチでもあるのかな、とすら思ったりもしながら、どこかソワソワしながら、どこか不思議な感覚の足取りでした。
診察室で見せてもらった検査結果の画像には、医療従事者ではない私にもわかるほどの塊が映っていました。
「大腸がんです」
帰りの車の中で、妻は「なんで私なんだよ~!」と叫びながら泣き続けていました。
私は何と言えばいいのかわからず、私も言葉にならない胸のつかえと涙の中、運転席から妻にティッシュを渡したり、妻の叫びを受け止めたりしながら、そばで運転することしかできませんでした。
急きょ、紹介状などをまとめて頂いたこともあり、大学病院での初診の日に、看護師の妻らしく、何かサッと検査する場合に備えて食事抜きで行く、ということが功を奏して、初日に治療への道筋をつけるための主な検査をこなして、手術の道筋が見えてきました。
「食事を控えてきてもらえたことが大きかったです」
医師からそう言われ、妻の判断が初動を制して吉兆のように感じられました。
長い待ち時間の間、無機質な病院の待合エリアの椅子に腰かけながら、妻のとなりから背中をさすったり、妻の手を握ったりしながら、受診番号が表示される画面を眺めながら、淡々とした呼び出し音にさらされてひたすら待っていました。
がんのステージがおおよそ判明し、手術が適用とわかり、教授の非常にわかりやすく丁寧で物腰がソフトな説明を受け、「手術さえ無事にスムーズに成功すれば大丈夫」なのではないかと思っていました。
しかし、がんという二文字は、妻の身体だけの問題ではなく、心にも大きな衝撃を与えていました。
手術を受けるために入院した妻は、医師から手術についての説明を受けて患者の同意とサインをする、インフォームド・コンセントの場で、あとはサインをするだけ、というところで、メンタル不調から同意書にサインできなくなり、「手術を受けない」「家に帰る」と、その日に入ったばかりの病室へと戻って行ってしまいました。
ご説明頂いた医師としては、今日はどうしようもないので、とりあえずご帰宅頂いて明日またお越し下さい、という、患者家族としては非情にも感じられるものの、精神科ご担当ではない医師の方の視点からみれば、たしかにどうしようもない状態で、ガックリとしながら車を運転して帰宅しておりました。
その翌朝、妻は病室にて、「東日本大震災ってほんとに起こったかどうかってわからないじゃないですか」などといった、妄想の症状が出ているようで、しばらくして、消化器外科の病室に精神科の先生方が病室に集まり、妻は消化器外科の病棟から精神科病棟へのお引越しが進められました。
幸いにも、同じ大学病院の中でのお引越しでスムーズだったものの、消化器外科の病棟から精神科病棟への渡り廊下を、ベッドごと移動中の妻に「智ちゃんはどこ?智ちゃ~ん」と呼ばれ、ずっとそばで付き添いながら歩いた距離は、実際の距離よりはるかに遠く長く感じました。
がんの手術をするために入院したはずが、本来なら手術の予定だった日に、精神科病棟への入院になりました。
大腸がん発見から入院までは、新型コロナウイルス感染症対策のため、これが後に運命の2週間かと感じたところですが、2週間の入院前の待機期間がありました。
眠剤はもらっていたものの、妻は、がんの不安で十分に睡眠がとれていなかった中で、入院の数日前に、自宅で、ふと、
「お金がないから手術できない」
妻が言っていたりしました。
「お金の心配は今のところ特にないし、高額療養費制度もあるから大丈夫だよ、手術を受けられるよ」
とお話ししておりましたが、振り返れば、その時点で貧困妄想として、妄想の症状が出始めていたのかもしれず、2週間の待機期間がなければすぐに手術できる状況だっただけに、ああ、運命の2週間待機、あと数日でも早めに入院・手術なら、遠回りしなくて済んだかもしれなかったなぁ~、といった思いを抱かされたりもしました。
がんは体の細胞を傷つけるだけではなく、心にも深い傷を及ぼし得るものだと、しみじみと感じされました。
「がんの闘病」は、それと同時に、「心の闘病」でもあるということを痛感させられました。
幸い、精神科と消化器外科の先生方や看護師さんやスタッフのみなさまが、非常に緊密にスムーズに連携してくださり、ごく一時的ではありましたが、閉鎖病棟に入った妻は、少しずつ落ち着きを取り戻し睡眠もしっかりとれるようになりました。
「がんのステージが進行する前に早めに手術を受けられるよう全力を尽くします」
と、精神科病棟の主治医(病棟長)の方から、そもそも、心の苦しみの元であるがんを手術で早く取り除き、そのことで心に少しでも早く安心材料を届けたい、といった急ピッチでのケアを受け、予定より1カ月ほど遅れたものの、がんの手術へとたどり着き、おかげさまで妻のがん手術は無事に成功しました。
消化器外科の執刀医(教授さん)から、術後すぐに、切除したがん細胞を前に手術のご説明を、物腰ソフトに丁寧に受けて、少しホッとしました。
それでも、退院したら、元の状態で日常生活に戻れるわけではありませんでした。
「がんの闘病」と共に、退院後から、「心の闘病」が本格的にスタートすることになりました。
私が過去にうつ病やパニック障がいに罹患した際、頭脳は活かせるのに、心の体力がへばって動けない苦しみを嘆いたことも少なくなかったですが、この時ばかりは、自分の当事者経験が妻のケアに活かせそうだなぁと思うと、あぁ、当事者経験があって良かった、大切な妻の役に立てる、と感じたりしました。
精神科病棟(普通病棟)から手術に向かった妻は、術後も精神科病棟(普通病棟)にて入院生活を続け、その間、消化器外科の主治医が精神科病棟にお越しになって、術後の状態を丁寧にケアして下さり、大変ありがたいことでした。
新型コロナウイルス感染症の大流行期でもあり、また、精神科病棟でいろんな会話や物事が心の刺激になりかねない中で、面会といっても、院内のwi-fi経由で用意されたタブレットでの面会や、妻のメンタル回復具合が少し持ち直してきたときには、感染防止のクリアパネル(透明な板)越しに、少し離れてマスク姿での面会(面会は1人のみ許可でした)だったりして、非常にもどかしくもありました。
当初の手術予定だった日の前日に、消化器外科の病室で、病棟内に響くアラート音が刺激となって怖くて眠れなかった、という妻が、精神科病棟では、心の刺激になることが抑えられており、術後からしばらくは刺激がかなり少ない状況が心地よかったようでした。
ただ、そこからしばらくして、少しずつ心の状態が持ち直してくるにつれ、だんだんと、精神科病棟での不自由というかあまり自由に過ごせない(逆に、じっくりと、ひたすら休める状態が確保されているわけですが…)で、
「おうちに帰りたい」
といった、自然と「次の回復へのステップ」へと歩もうとする様子が見受けられるようになりました。
ただ、精神科病棟の主治医(妻は消化器外科の主治医(教授)と、精神科病棟の主治医(病棟長)という、ダブル主治医状態でした)からは、退院してムリをしないか心配な面があるようでした。
そこで、妻とお話ししながら、自宅療養でムリせず自宅でも入院の続きとして過ごす、入院する場所が病院ではなく自宅にする、と言う感じで、
「おうち入院したいのですがって、主治医の先生にお話ししてみたらどうかなぁ?」
とお話ししてみたところ、妻から主治医にその旨のお話しをして、主治医からもOKを頂き、退院の日程が決まった感じでした。
退院後、妻の心の状態は、良くなったり、また沈んだり、昨日できたことが今日はできなかったり、今日は笑ったひとときがあっても、次の日はずっと不安に押しつぶされるといった、寄せては返す波のように、アップダウンが何度も何度もやってきました。
「おうち入院」の「院長」として、また、夫として、もちろん、本物の医師や病院の院長でもありませんが、妻をもっとも近くで医師や看護師より長く見つめて寄り添ってきた者として、そばにいて当事者経験のある夫だからこそ、いろいろと役に立てることがあるよね、と思いながら、「院長」をしていくことにしました。
24時間の暮らしの中で、妻が言葉にできない小さな変化に気づけるように。
心を回復させるためのお薬をちゃんと飲んでくれたか、ソフトに刺激にならないよう確認すること。
妻がやれるという家事以外の家事全般を代わって受け持つこと。
当時、小学生の息子の育児や小学校での対応などを引き受けること。
妻が話したいときには、やっていることをすべて止めて、最優先で何時間でも妻の話に付き合うこと。
逆に、妻が話したくないときには、そっとしておきつつ、そっと見守りながら、必要があればすぐそばに駆け付けること。
そして何より、妻が、
「このおうちに、あるがままに、いてもいいんだなぁ~」
「何かした見返りや報酬としてではなく、ただ、妻として母として、このおうちにいていいんだなぁ~」
と感じてもらえる「心の居場所」を妻にご用意すること。
妻も息子も、何におびえることもなく、ただグッスリ眠れる場所がある、という、「心の安全基地」を作ること。
そんな日々に、息子を寝かしつけた後、私はスマートフォンに、妻の様子を記録して打ち込むようになりました。
宮崎にいて、思うままに移動もしにくく、病院に行っても面会すら難しかった感染症の流行期に、妻のご両親への報告も兼ねたその詳細な記録が、日本マネジメント総合研究所合同会社のウェブサイトに掲載した「おうち入院カルテ」になりました。
「おうち入院カルテ」には、希望だけが書いてあるわけではありません。
妻の心のコンディションから、精神科病棟(閉鎖病棟)への再入院を覚悟した時もありました。
6時間近く「お話しカウンセリング」で妻とお話を聞いたり認知の歪みを修正に少しずつでも導けたりするように、でも、押しつけや決めつけにならないよう慎重にしながら対話し続けた日もありました。
大学への職場復帰を断念したことも、妻が何気なく参加してみた会合で、妻の状況をご存じない方から勧められたPTA役員決めで、妻が急激に心の状況を悪化させ、私の方で辞退のお詫びに回ったこともあれば、心の状態が弱っているスキに付け込まれて、妻が国際ロマンス詐欺に巻き込まれかけ、振り込み寸前で食い止めたこともありました。
それでも、寄せては返す波のように、アップダウンを繰り返しながらも、妻は少しずつ自分を取り戻していきました。
大卒(学士)でなかったところから、コロナ渦中に社会人編入で4年制の通信制大学を卒業しました。
もともと元気印で社交的な妻が家から出られない(心が苦しくて、人と会うのが難しくて)ところから、少しずつ、自分で外出できるようになりました。
心が苦しくて動けない自分のことを責めていた妻が、好きなことを楽しめるようになりました。
やがて、がんや心の不調のことを人に話しても大きく崩れないところまで来ました。
2025年(令和7年)5月には、念願だった宮崎の実家への帰省も、家族が一緒に付き添ってできました。
そして2025年(令和7年)9月に、心の面では、主治医から、急性精神病性障がいについては「寛解」(がんの寛解はまだ少しかかる)という、一つの区切りをいただきました(寛解は、絶対に再発・再燃しないわけではないけれど、現状、ある程度は安定していて大丈夫そうな状態、という感じです)。
この本でお伝えしたいのは、華々しい「克服物語」ではありません。
私も妻も、一緒に寛解へ向けて歩いている道は、不格好かもしれませんし、生活感というか日々の大小さまざまな出来事の積み重ねです。
食事を作れた。
今日はお風呂に入れた。
検査に行けた。
家族で笑えた。
疲れたから無理せず予定をやめることができた。
「まぁ、いっか」「てへペロ」ってやり過ごせた。「明日でいいや」と言えた。
そんな一つひとつが、私たちにとっては日々の奇跡の積み重ねであり、心身ともに寛解へ向けての足取りそのものです。
自分のペースで、大丈夫
アップしても油断せず、ダウンしても悲観せず
これからも、一緒に歩んでいこう
この本が、がんや心の不調などと向き合う方にも、そのそばで支える方にも、何か少しでもお役に立てば幸いです。
2026年9月 戸村 智憲 記す




