毒親ラボ
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毒親との50年: 愛をもって毒を制しつつ、マイナスをプラスに・プラスを飛躍的なプラスに転換しながら、共に過ごしてきた体験談を通じた人権啓発・人権救済への取組み
毒親ラボ【目次】
- 毒親ラボの活動趣旨
- 戸村智憲の生い立ち
- 毒親ラボでの戸村による「毒親」関連の講演・執筆・各種出演など
- 毒親ってなに?(一般的な定義と戸村版の解説)
- それって虐待ですよ!虐待のパターン
- うちの家庭って変じゃないかなぁ~?「機能不全家族」って?
- これが無条件の愛情なの?「条件付き愛情」って?「家庭内の愛情獲得ディール」「自分らしさを育てる花壇」
- 子は親の奴隷ではなく、親も子の奴隷ではない: 子も親も共に同じ人権ある存在 & 家庭が「心の安全基地」になっていますか?
- 家庭内での閉鎖的な「優越的地位の濫用」: 子の多様性・個性・意志などを尊重するなら「親にとって都合が良いとは言えない」ことも受け入れる
- 「昔からよくあること」という都合の良い言い訳: セクハラ・性暴力・パワハラ・体罰・虐待も昔は「当たり前」のようにはびこっていたことを都合よく持ち出すケース
- DV(ドメスティック・バイオレンス)で妻/夫や彼氏/彼女が暴力・人権侵害をうけるのはいいの?妻/夫や彼氏/彼女ではなくそれが子だったら?
- 殴る蹴る・怒鳴りつけるなど「カスタマーハラスメント」で「お客様」が「店員さん」を痛めつけるのはいいの?客と店員ではなく「親」と「子」だったら暴力や人権侵害は黙殺されるべきなの?
- 誰でも加害者・被害者になり得る: かつての「毒親」被害者が親になったら忌み嫌っていたはずの「毒親」になり得る「毒親再生産ループ」にはまる「3つの心のワナ」と対処法
- 「毒親」は、親子関係だけでなく、社会的にお互いの多様性の公正公平な尊重と受け入れあい(離れるべきなら離れてお互いを尊重できるようにする良き距離感)が大切ということ
- 逆に、介護や看病が必要になった親になったとして、同じように支配・虐待・ネガティブなことをされたいですか?
- 毒親が仮に「私はいっぱい泣いてつらい思いをしてきた」としても、それを根拠に、子に同じ目にあわせたり復讐心を子にぶつけていいわけではない
- 「毒親災害」サバイバルの3つの対応: ①「逃げる」、②「相談する」、③「線引きする」
- 「世の中は、良くも悪くも、不公平」: 不公平を公正公平に毅然としつつ前向きに尊重して受け入れ合うことで、多様性ある人権が育まれる。偏見や差別を持って不公平を後ろ向きに忌み嫌って排除したり、世の中は不公平で当然だから黙って我慢しろと強要したりすると、多様性なく人権も損なわれる。
- 身勝手な「幸せ」を「与える」こととその「幸せ」を「ありがたいと思え」との圧に忖度させられる: 幸せは与える・与えられるものというより「幸せは共に寄り添って築きあう」もの
- 毒親には毒親なりの幸福(ただし他者の人権侵害等にあたらない範囲で)を追求する権利があり、子には毒親と心や住む場所などの距離が離れても一緒にいても、子なりの幸福を追求する権利も当然にある
- 戸村語録: ①幸せ・恵まれた心理的安全性に戸惑う「カクタス・パラドックス」、②「毒親に荒らされた荒地ならトマトを育てよう」、③「うるおいのない毒親砂漠なら砂漠にオアシスをつくってしまおう」
- 親が職場でのハラスメント被害や人権侵害で苦しむ心身を、圧倒的な家庭内での優越的地位をもって、子を犠牲・生贄・はけ口にして解消しないで済むように「ビジネスと人権」対応に取り組む
- 「毒親なぞかけ」: 「招福・楽しく学びを得る」ビジネス噺家こと「商福亭法楽(しょうふくていほうらく)」が、毒親テーマでなぞかけやってみました(世を忍ぶ仮の姿が「戸村智憲」なのかも!?)
- オレ/ワタシって毒親なのかも?と思ったら…
- 児童相談所に「通報」するのはちょっと…。「通報」じゃなくて「お伝え」や「ご報告」してあげてもいいのでは?
- 毒親が「私は正しいことを言っている」という際の問題点
- 「毒親」に悩んだりした時の参考サイトなど
弊社は2025年(令和7年)11月12日より、子ども虐待防止オレンジリボン支援企業となりました。
毒親ラボの活動趣旨
【活動趣旨: 人権啓発と人権救済】
「毒親ラボ」では、自分が白衣を着て自分を50年以上にわたって「実験台」のようにフラスコや試験管を振りながら冷静に自分で自分を「実験室(ラボ)」で観察・考察・発表するような感じです。
実際に「毒親」からの負の影響がどのようなものか、また、子の人権侵害・さまざまな形態の虐待などがどのようなものか、自分の人生・心身の負荷などを実験台として研究しているようなものです。
大切にしていることとして、「毒親」への復讐や攻撃や感情的対応などではなく、人権救済・心身のケアの第一歩を歩みだせるよう、まず、「それって人権侵害・違法/不適切行為だったんだ」との気づきをお届けできるよう、「毒親」問題や人権・関連法令等の啓発活動を進めております。
もちろん、「実験台」の私も人間ですので、感情も絶望も希望も抱きますが、毒親とて人権のある人間ですし、毒親の被害者となる者も人権ある人間ですので、防衛に必要な反論や人間としての生活を送りあう上での提案などは、無理ない範囲で人権も被害側の心身の負荷も総合的に勘案して対応したりします。
また、毒親という人権ある人間の精神疾患・精神障がいなどの可能性も念のため考慮して、今で言う「合理的配慮」に家庭内でもずっと留意して慎重に長期間にわたって対応しております。
自分の心のセルフケア(毒親に共感・理解・心のケアは望めない感じでもありますし…)を超人的にこなしながらのことですので、安易に同じようにまねをすることは特にお勧めしませんし、気づきや工夫などのお手伝いはできたとしても、ご自分の人生をどう歩まれるか・どう対応なさるかなども含めて自己責任でご対応下さい。
毒親ラボを契機に、多様な意見や観点から議論の呼び水となったり、人権啓発のきっかけになったりすればいいなぁと思っております。
「人を責めず問題を解決する」というスタンスで、相手の人格攻撃や復讐心を満たそうとすることや相手だけでなく自分という「人」も責めず心のケアも大切にすることが、毒親問題の対応でも大切ではないかと思っております。
ただ、なんでもかんでも毒親のせい、といったことや、子の側の身勝手・無責任・度を越えた他責などについては、過剰防衛や攻撃や人格攻撃などを是認などをするものではありませんので、予め悪しからずご了承下さいませ。
【「毒親ラボ」戸村智憲より】
「現代の奴隷制」は、「ビジネスと人権」の観点でイメージされがちな、会社・職場のシーンだけに限らないのかもしれません。
もしかすると、家庭内・親子関係においても、子どもが親の奴隷的な存在として扱われかねない状況があるのではないか、そんな風にさえ感じられかねないぐらいに、親の身勝手な支配に翻弄される「子ども」は、思春期を超えても人生の長きにわたって様々なダメージを負わされるケースがあります。
かくいう私、元・国連の専門官で弊社理事長の戸村智憲も、50年にわたり、父母(育ての父 & 生みの母)ともにいわゆる「毒親」な問題に悩み続けながら、実体験として、ひとつひとつ乗り越えたりやり過ごしたりしながら生きてきました。
今は、小学6年生の息子を育てる親として、「毒親」な父母(育ての父と生みの母)を反面教師として、家庭内でも親も子もともに人権あるお互いに尊重しあえる家庭を目指して、多様性の尊重と公平公正な受け入れあいを旨に、幸せを与えるのではなくともに築きあえるよう暮らしています。
「毒親」は、子どもからすれば、何も悪いことをしていなくても、突如として、あるいは、日常的にもで、台風のように進路を変えつつ、地震のように大きな揺れや津波のような精神的虐待をもって、場合によっては命を奪うほどに過酷な脅威をもたらし得ます。
防災士でもある戸村は、「毒親災害」((C)戸村智憲)と名付けてみました。労働災害(労災)より防ぐのも法令での対応も難しく、地震予知より「毒親」が変わってくれるのは実現困難でもありそうです。
また、地震や台風や水害などの被害が生じやすい地域から離れて暮らす(毒親と心や暮らす場所の距離を離して生きていく)ことも可能な一方で、災害の被害が起こりやすいところで暮らす場合(毒親と距離を置くのが難しい場合)、特性を理解して「減災」に向けて備える(毒親からの被害・負の影響を少しでも減らしたり乗り切り方を工夫できるように備える)ことで、少しでも生きやすく心身を癒しやすくできる面もあろうかと思われます。
50年におよぶ「毒親」との実体験から、若い世代も、思春期以降も、長期間にわたり悩みがつきない方々にも、「毒親が毒親を産む再生産」から脱して、より良き家庭/社会に向かえるように、あなたの心も身体も人権も守っていけるように、大切なことを公益性・人権救済・ジャーナリストなどの観点からも、あるがままにお届けできれば幸いです。
自らの心身を、自分が自分を実験台にするような面もありながら、セルフカウンセリング・セルフケアで独力で乗り切ってきたり対応してきたことなどを、公益性・人権救済などの観点からも、世の中で毒親にお困りの方々に何らかのヒントやケアの一助となるべく、自身の実体験・乗り越えの工夫・心身のセルフケアの取り組み・問題のリスク管理/危機管理・毒親への対応/対峙の仕方・自分が親になって「毒親再生産」を避けるために心掛けて実践していることなどを語り伝えて行ければと思います。
マイナスをプラスに転じ、プラスはさらなる飛躍的なプラスに転換できるよう、日々、試行錯誤を続けています。毒親からの「負の影響」は、そのままでは、心身・経済に強烈なダメージを負わされるものになりかねません。しかし、これまで、いろんな指導・イノベーション・創意工夫において、毒親からの苦しい想いを、指導内容やお話しのネタとして昇華し、繰り返しさいなまれてフラッシュバックするようなつらい思いも、仕事のネタとして活かし、スライド資料に書き起こし、スライドに書き起こすたびに心と頭が整理され、指導にあった内容に調整するたびに、繰り返し苦しい想いをすればするほど、熱心に机に向かってひねり出さなくてもたくさんの指導内容が浮かぶことになり、人前で話すたびにセルフ・セラピーになり、ご受講者さまにご満足頂くほどに癒され、魂を揺さぶるようにステージ上で講演・指導しております。
外から見れば、繰り返し悪夢のような思いにうなされるようなことですら、仕事のネタに転換していけば、自然と湧き出るアイデア・指導ネタの泉に浄化でき、努力して机に向かって頭をひねらずとも、苦しみにあえぐほどに広く深い世の中への洞察へと転換できるものと思ったりしております。
また、毒親については、これまでは毒親本人の精神面での影響も勘案して公表して参りませんでしたが、壊滅的な暴走を機に、逆に、ハラスメント対策でもあり得ることですが、密室・閉じた世界で毒親が身勝手な話に自己陶酔して負の影響をまき散らす暴走を、ある程度は、外の目によってセーブされたり、何をやっても外の世界に知らされないとタカをくくって横暴になることもセーブでき、あるがままをお話しすることで自分の身も守りやすくなる面もあろうかと思っております。
どうすれば毒親災害の100の被災ダメージを少しでも「減災」できるか、どうしておけばより良い「備え」となるか、お互いにとってより良い「心の距離感」「過ごす場所での距離感」「経済面での距離感」がとれるか、など、毒親ラボにていろんな工夫・物事の見方・対処法などを、試験管やフラスコを振るようにいろいろ試行錯誤してお話しなどでお届けできればと思います。
必ずしも、絶対に毒親と別々に暮らす必要があるとは限りませんし(ただし、「心のほど良い距離感・安全距離」は保っておく方が良いと思われます)、必ずしも、絶対に一緒に過ごさなければならないわけでもありません(ベッタリと共依存してでも過ごすことがお互いにとって良いわけではありません)。
多様性の公平公正な尊重と受け入れあいは、家庭の中でも外でも同様ですし、家庭内・親子間・夫婦間・親族間でも、人権擁護や人権侵害への救済が必要ですので、人権の観点から、共に生きるにしても別々に生きるにしても、心理的にも身体的にも少しでもより安全な距離や状態を確保していけるようにしておく方が良いと思われます。
(注)「毒親ラボ」の記載内容・各種情報発信などについては、代行での問題解決や資金援助などを企図したものでもなく、また、何か特定の医療やサービスを推奨したり保証したり当方で責任を負ったりするものなどでもありません。みなさまが各自で自己責任にて公式の最新情報などもご勘案頂きながらご対応下さいませ。
(注)クレームに関しましては、下記の指定ウェブフォームのみにて、必ず、(1)対象事案、(2)「クレームの申し立て」、(3)ご返信・ご連絡がとれるメールアドレスと正式なご住所(建物名や部屋番号なども含めて略さずご記載下さい)・お電話番号を明記、(4)クレームの根拠および根拠法令等、の4点は最低限必須事項としてご記載・ご送信下さいませ。弊社の顧問弁護士(事案が簡易裁判所での取り扱い範囲の場合などでは簡裁代理権のある顧問司法書士等の場合もあり得ます)などにも相談の上で対応を検討致します(返信・対応等をお約束するものではございません。また、状況により、心苦しくも裁判所からの特別送達という形での返答・対応となる可能性もあり得ることを予めお知りおき下さい)。それ以外のご来訪・架電ご連絡・FAXご送信・郵送物等のご配送等でのクレームに関しましては、業務上の支障になりかねませんので、お承り致しかねますことを予めご了承下さいませ。 ・弊社指定のクレームに関するウェブフォーム: https://www.jmri.co.jp/contact.html
戸村智憲の生い立ち
幼児期に産みの母(健在の実母)が産みの父と離婚し、ほどなくして育ての父(逝去)と再婚。育ての父・産みの母ともにダブル「毒親」で、条件付き愛情での経済的支援は支配下で親の価値観・思考などの枠内にいる間は豊かながらも、精神的な家庭環境は機能不全家族の状態でした。
20歳ごろまで養子縁組での子だと知らされていなかったものの、てっきり、「毒親」な育ての父の血を引いていて、ダブル「毒親」な遺伝子を継いでいるものと思っていたこともあり、自分が育ての父の血を引いていないことに歓喜した覚えがあります。
まだ小学校に行くか行かないかくらいの小さい頃に、誕生日プレゼントに、本当に自分の心の底から、スーパーで見かけた電車のおもちゃ(多分、数百円くらいと思われる)が欲しいというと、ありがたくも、似ても似つかぬ大きなまたがって乗る電車のおもちゃをプレゼントしてくれました。
私が、本心から、あのスーパーで売ってたやつがほしかった、というと、何てこというの!いいものをくれたんだから喜ばないといけないでしょ!と叱られ、それ以降、「与えられるものが幸せと思わなければならない」という「幸せですありがとうごっこ」をするように気を遣うようにしてきました(すごくその時のワンシーンは強烈に覚えていて、こういったものも、いわゆる「美的経験」なのかもなぁと思ったりします)。
小学4年生ごろに将棋を育ての父から教わり、小学校でも将棋クラブ活動をしていたりしたおかげか、小学5年~6年あたりで思考がいろいろ展開できるようになり、何が正しいか、その正しさは誰にどう都合の良い正しさか、我が家に正しさなるものはあるのか、などと、あれこれ考えるようになりました。
基本的に、条件付き愛情での経済支援のため、親の求める範囲・価値観・考え方・言動である内は、いろいろと良くしてくれますが、個性を出したり親と異なる意見で会話するだけで、「あ~、そんなこと言われるんだったら、もう、ご飯も作らないし、洗濯もしないし、勝手にしなさい!」と、生活や支援を極端すぎるほどすべて奪うと告げられることがたびたびで、本心・個性・自分の価値観はカモフラージュして過ごしておき、私の感覚では、おかしいと思う点は変に納得したり親と同化せず、大人になってから「答え合わせ」するようにしよう、と思っていたりました。
また、ふと、うっかり家族のことを考えていて「遠い目」になっていたようで、「なんか遠い目をしているね」といわれ、本心を悟られたかとあわてたこともありました。
小学6年生~中学校ごろには、産みの母が、あなたにはいろんな可能性があるし、いろんな自分でやってみたいことをやっていったらいいんだよ~、という言葉を鵜吞みにして感謝していたのですが、高校3年生ごろに、うっかり、つい産みの親に心を開いて本心から早稲田大学の政治経済学部に行きたい・政治家にも興味がある、と話すと、政治家なんてお金はないし、あっても出しません、そんなものになるんじゃない、と言われて、泣きながら、政治家にならなくても、政治経済を学びたいし、早稲田の名門で首相も輩出した「雄弁会」で、高校の時に弁論部の部長として再建してきた学びも活かしたい、というと、そんな「雄弁会」なんて居酒屋で酔っ払ってクダをまいているとんでもない人たちだから、そんな活動は許さないし、(育ての父)会社を継ぐのが一番いいに決まってるでしょ!と、泣いても謝っても代替策を用意しても、全否定して進路をつぶしにかかられ、そこで心が折れて学習意欲も気力も生きる意味も奪われてしまったこともありました。
なんとかして心を立て直そうとして、その日に、クラシック音楽を聴いて心を静めて、さあ、別の道だとしても前に進めるように、気を取り直して涙を拭いて勉強しようかという絶妙にピンポイントなタイミングで、私の部屋の扉をガラっと強くバンと開け、産みの母が「勉強しなさい!」と厳しく言い放って、ピシャと扉を閉めるなど、本人は良いことをやっていると決めつけて、自覚がまったくない状態ながら、強烈に心を折ったり相手の感情を圧殺する天賦の才を備えていたりして、一気に心が折れるというより心の複雑骨折という感じで、一浪するに至りました。
早稲田大学の進学という当たり障りない理由で東京に一人暮らしすることで、ダブル「毒親」な父母から距離をおけたのは良いものの、心の複雑骨折は早々かんたんに治ってくれず、心を少しでも癒していけるように苦労し続けながらも、少しずついろんな資格取得などで、本来やりたかったこととは全く異なっても、代替的な欲求とその実現に、気を紛らせながら過ごしていた感じでした。
育ての父の浮気やら、母方の祖母のがん(ステージ4で転移箇所多数で手術の適用なし)での病室泊まり込み看病やら、いろいろありつつ、産みの母が趣味で教えていた教室(エッグアート(ロイヤル・アート・エッグとよんでいましたが…))のお弟子さんと母の法的トラブルで、母が慣れない法律処理で心労を重ねないよう私が矢面に立って対応していたりしたころに、家庭内だけでなく法律対応でも心労が重なってしまい、うつ病・パニック障がいを罹患することになりました。
以前はいまと違って、まだまだメンタル系の疾患に差別や偏見もあったりしましたので、罹患について公表などはしていなかったり、メンタルヘルス指導をする立場にもなって公表を決断した際も、表向きには「国連の激務で…」と、たしかに国連の激務も一因で嘘ではないですし、守秘義務上あまり言えませんが、国連の職場も強い心理的負荷・人権上の負の影響がある面もあり、そのようにお話ししていましたが、実質的には、母のかわりに身も心も砕いて母をかばって罹患した状態でした。
母には、ごくごく初歩のサッと読める薄手のうつ病についての入門書を渡して、うつ病について少しだけでも理解してもらえないかとお願いしたところ、助けたはずの母からは、「読んだけどよくわからん」「なんかやってほしいことがあれば言って!」と、ピシャっと心の扉を閉ざされたというか、突き放されたというか、共感なく理解しようともしてくれず、悲嘆にくれた思いもありました。
あれこれ書き始めると、とめどなく「毒親」エピソードが重なりますので、大まかには、最悪のタイミングで最悪のことを法令にギリギリ触れない範囲で問題を起こして物事をうまく行かないようにしてきたり、母を看病して助けても回復してすぐに、私の心が崖ギリギリのところで踏ん張っているような状態でも、崖から突き落とすようにえぐい対応や心無い一言で、仕事のチャンスも会社経営も奪っていくようなことなどもあったりして、非常に大変な状況が続いていました。
そんな大変な状況は、妻のがん罹患・がん発見のショックでのメンタル不調などで、「おうち入院」の「院長」として、というか、産みの母にはメンタルケアは任せようもなく、孤軍奮闘しながら妻を支えて育児・家事・洗濯・仕事とフル活動している時ですら継続したりしていました(普段よりは多少はえぐさがマシだったのは幸いでした)。
2025年10月14日~15日にかけて、「毒親」の影響を受けて反発してきたはずなのに、産みの母が自覚なく強烈に精神面は完全に「毒親」状態になっていたこともあり、30年以上かけて慎重に母の心の闇・状態なども見極めながら、母と対峙するして、2025年10月22日に、そうだ、母をかばって伏せていることで母の暴走を助長してしまい、母の都合の良いストーリー作りで「母親を悪く言っているじゃないか!」と強烈な指摘をくらい続けるようなことに甘んじ続けるよりも、真実や大切なことを伝えて困っている方々の助けになる方がより素晴らしいのではないか、との思いに至り、我が家の「毒親」事情について公表することとしました。
思い返せば、もし、32年なり33年前にでも、母と対峙するしなやかな愛ある強さが私にあれば、いろんなものをムダに不必要に犠牲にしまくること無く済んだのかもしれないなぁ~、と思いつつ、そのころは、我が家のもう1人の「毒親」である父が健在でもあり、二正面対応はムリだっただろうなぁ~、と、思ったりしております。
公表とはいえ、我が家のことを超えて、どなたか第三者の方などにご迷惑をおかけしないよう、やむなく伏せるところは伏せていったりしながらも、基本的に、あるがままにお話し・お伝えできればと思っています。
また、産みの母は、母の親(私にとっては母方の祖父)が、ギャンブルで借金したり、ブラックリストに乗ったり、精神面でも毒親な状態だったこともあり、母も何らかの毒親被害者の面はあったりして、母があれほど憎んでいた毒親に、母が自覚なく毒親再生産ループにはまってしまっているのは、非常に残念だったりもします。
ただ、毒親を憎み経済面だけは同じようにはならないようにしたい、との思いがある面は、毒親を脱するに至らずとも、毒親として及ぼすダメージ軽減には、プラスに作用し得る点かもしれませんし、私としては、毒親の負の影響には対峙はしますが、可能な範囲においては、人間としての愛情をもってより良き方向に導く(可能でなければその限りになくなりますが…)、という感じでの対応にしております。
離れて暮らしても心理的・精神的・経済的なダメージがおよび得る場合もあれば、一緒に暮らしていても心理的・精神的・経済的にダメージを低減してある程度の許容範囲内で過ごせる場合もあり得ますので、いろんな状況やリスクを総合的に判断して、共に過ごしていけるなら相手に特に期待はしないとしても共に過ごし、別々の方が良いならためらわずサッと離れて過ごせばいい、という感じでもあります。
ちなみに、私の息子(2025年時点で小6)には、万が一、私が無意識の内に「毒親」化していてはいけませんので、児童相談所への電話「189」などの各種の公的な相談窓口や、学校の相談窓口や警察の総合相談窓口の電話「#9110」なども繰り返しお知らせして、もしも親の対応で悩んだり苦しい想いになったら、すぐに、電話やLINEやSNSチャットや相談窓口に行って相談するんだよ、と私自身を常に自戒する上でも息子に繰り返しご案内するようにしております。
毒親ラボでの戸村による「毒親」関連の講演・執筆・各種出演など
・演題(例): 「“毒親災害”のサバイバル術: 父母とも毒親な50年の実体験から伝えたいあなたの身も心も人権も守る“護心術”」
・講師: 戸村智憲
・形式: 講演・人権講話・執筆・パネルディスカッション・出演・相談会・対話・対談など
<お届け内容/講演等の項目(例)>
◆毒親にピンときた!あのシーン・この瞬間…
◆幼児期の親の離婚と再婚・「条件付き愛情」による経済的支配・精神的虐待など…
◆そもそも「虐待」ってどんなことが当てはまるのか?意外に身近に起こり得る「虐待」
◆当然ですが「子ども」にも人権はあります
◆子どもは親の奴隷ではなく、親も子どもの奴隷でもない: 家族でもお互いの人権侵害がないように対応することが必要
◆子どもの頃の戸村が思ったこと: 「答え合わせ」は大人になってから・魂は売らずカモフラージュする・機能不全家族のNG集を集めて反面教師として親になろう・「毒親」原因のことと自分が原因のことを分けて整理しておこう、など
◆もしかしてあなたの親も「毒親」かも?: 毒親にありがちなあんなこと・こんなこと
◆「毒親災害」のサバイバル「3つの原則」: Run(逃げろ~)・Hide(心身を隠せ~)・Fight(立ち向かえ~(ただし、どうしようもない場合で余力のある状況などに限る))・Call(電話や相談窓口に連絡する)
◆「毒親災害」はあなたのせいじゃない: 自然災害はあなたのせいで地震や豪雨が起こるわけではない
◆「毒親」から(心身の)距離をとる・距離をとれなければダメージを少しでも少なくする
◆「毒親災害」での避難: 「毒親」をあやめてしまいたいと思うくらいなら、「見捨てる」「離別する」方が親思いであなたの人権救済に向けてお互いに健全な関係性を保てる
◆メンタルヘルスについて知って自分の心はある程度は自分で癒し守れるようにする
◆心療内科・精神科やカウンセリングを偏見なく利用してみる
◆「毒親」に精神科医や弁護士が頼りなくなりがち(だからこそ厄介な問題…)
◆社会の基本スタンス: 自分のことはできるだけ自分で解決しつつ、サポートできるところは支援する(冷たく感じるものの、あなたが逆に誰かのすべてを解決・対応しきれないように、丸投げ・人任せではなかなか解決・対応しきれないので、解決・対応・相談などの心身の余力を少しでも貯めておく)
◆「毒親災害」の「避難所」リスト: いろんなところにあるいろんな相談先・支援団体など
◆子ども側の人権擁護と心身の安全確保に向けた「良き面従腹背」のススメ
◆スパイが敵地で敵にまぎれこむように、「毒親」の支配エリアでスパイみたいに個性・価値観・多様性などをカモフラージュして同調してやり過ごす日常生活
◆心のレジリエンス「3つの原則」: ダメージ最小化・早期ケアで早期復旧・心の備えの積み増し
◆「毒親災害」の「心身の被災状況」は、口頭でのやりとりではなく録音・録画・文字などで客観的に判断できるよう記録を残して反論する
◆「多様性の公平公正な受け入れあい」を逆手にとってくる「毒親」に対処する際の、戸村オリジナルの「ベクトル・ガードレール・アプローチ」((C)戸村智憲)で整理する「除外エリア」
◆「毒親にも人権があるんだぞ!」と人権を逆手にもっともらしく主張してくる際に気を付けたい「人権が制約される場合」「人権と公益性との天秤」などの視点(他者の人権侵害・公益の害となる場合)
◆呪いのように心を刺してくる「毒親」からの言葉は、闘牛士のようにかわすイメージを持つ
◆学びたいことや進路を破壊して思い通りにならないと精神的虐待に悩まされて心を折られた日
◆大切なシーンでは誤りを認めない・決して謝らない・逆切れする・理解しようとさえしない
◆どうでも良いところで過剰に良き親を演じるパフォーマンスにうんざりする…
◆「被害者と加害者のすり替え」であなたが悪者にされるリスク
◆根絶やしにされる「花壇」: 自分の心の「花壇」に育ち始めた個性・多様性の芽を荒らされる
◆心を開いて寄り添うと徹底的に心を折られて傷つけられる
◆親の理解の枠内以外は認めない・理解しようとしない・排除へと脅される
◆「教育」のつもりで「教化」(刷り込み/洗脳/思想統制)をすることで心の支配に余念がない
◆平坦でスムーズな進路を良かれと思ってイバラで飾り付け、大切な唯一のトンネルを爆破する
◆家庭内が政治家の利害交渉の場のようになる(無条件の愛が見当たらない…)
◆身を挺して心も砕いて親を守って看病しても、ギリギリな状態の「心の崖」からその「毒親」に突き落とされる…
◆親の代わりに心を砕いて「うつ病」「パニック障がい」に罹患してもその助けた「毒親」に突き放される
◆心の不調に助けを求めても「よくわからない」「してほしいことがあれば言え」で共感が無い
◆人生の節目や大切な勝負所でピンポイントに「背中から撃たれる」ように問題を起こしてくる
◆まったく自覚なく良かれと思い込み決めつけて「やめて」ということすらやりまくってくる
◆「加害意識が希薄な被害妄想者」((C)戸村智憲)として反論・指摘に半狂乱でわめきちらし勢いで押し切ろうとする
◆「違法性はなくても不適切」な「毒親」による「私は何も悪いことはしてないのに悪者にされる」という場合の「悪い」が法令にさえ触れなければ「何をやってもいい」と決めつけている問題
◆100個の内で1つしか正しいことがなくて全体として間違っていても、「私は正しいことを言っている!」と言って譲らない問題
◆子どもがいかに正しい反論をしても「そんなこと言われるんなら、もうご飯も作らないし洗濯もしないし勝手にすればいい」と精神的虐待で極端に困らせる反応で非を認めずこちらのせいにさえする
◆家族がお互いに大切にしあおうよ、というような話をしただけで、「そんなことしたら家庭が崩壊する、そんなことは言ってはダメ」と止められる
◆家庭内でまともに生きようとするだけで、特殊部隊の訓練なみに家庭内の日々で心が鍛えられる
◆「社会の厳しさを教えている」というものの、家庭内より社会の方が温かかったりする…
◆「あなたのために~しているんだぞ!」と、不正の正当化であなたの個性・価値観・可能性をつぶしてくる
◆家族の心のつながりを大切にすると、口汚く唾を飛ばして「この偽善者が!」と罵倒される
◆プロの指導者としても子育て中の親としても、家庭内の人権を大切にすると「ちょっとぐらい子育てしたからって偉そうに!いい気になるな!」とキツイ口調で吐き捨てられる…
◆「何不自由なくしてやったじゃないか」の落とし穴: 「毒親の都合の良い対応をする範囲内にいるかぎり何不自由なくしてやる」という支配性・条件付き愛情の問題
◆そんな「毒親」を助けるために力を尽くして工夫しても、その「毒親」が気に入らないことだと「私のことは助けないのか!」とブチ切れる…
◆「毒親が変わってくれる・理解しあえるという期待」は、地震後の津波に向かって走っていき、「津波は私がすべて食い止める」というぐらい危険性ある感情かもしれない問題
◆「毒親」に復讐しても得られるものは一瞬の達成感の後に訪れる虚しさ
◆復讐心が「毒親ダークサイド」((C)戸村智憲)への誘い: 「毒親」は「毒親再生産ループ」((C)戸村智憲)で作り出される
◆「毒親再生産ループ」から脱して、あなたが「毒親」にならないために大切なこと
◆「毒親」への怒りがあっても当然だが、怒りの「力」をより良い方向性で「爆発力」に変えていく
◆「毒親」が主役の「あなたが毒親の引き立て役の人生物語」から、「あなたが主役の人生物語」のハッピーエンドに変えるために…
◆「愛」をもって「毒」を制してともに歩む道へのヒント
◆「毒親連鎖」「毒親再生産ループ」(ともに(C)戸村智憲)から脱して、親として家庭における心理的安全性(家庭が子ども・家族みんなの安全基地になる)を確保していく取り組み
◆「家庭ガバナンス」の強化: 親が支配者や暴君として強い影響力をふるうのではなく、家族からの信頼などをお預かりして家庭環境を良き方向に整える家庭運営の役割をもって家族を築く「家庭ガバナンス」((C)戸村智憲)
◆「毒親」を反面教師として、ただし、反動がきつくならないようナチュラルにニュートラルに取り組む「パパ学校」(親の敷いたレールを子に走らせるのではなく、子の個性・多様性に応じて親が子の進みたい方向を支援して子の意志・希望に沿ったレール建設やバックアップする家庭内の教育・支援・伴走機能による諸活動)
◆「毒親災害」Q&A: 「毒親」から心身を守るためのあれこれ
など
※各内容(例)等は、最新動向・社会状況・最新の研究成果等を基に、より良いものをお届けする等のため、事前の予告なく内容や構成等の改訂・修正・変更等を行う可能性がございます。予め悪しからずご了承下さいませ。
毒親ってなに?(一般的な定義と戸村版の解説)
スーザン・フォワードの著書『毒になる親』(toxic parent)をはじめ、一般的な「毒親」についてのお話しからは、「毒親」 = 「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」といった定義(学術的なものではないですが…)はあります。
戸村版の定義としては、「子を奴隷化して生涯にわたってネガティブな影響を及ぼす親」とまとめてみたりしています。
同じ人権ある人間どうしでも、親子の関係・家庭内において、子を奴隷化して親にとって都合よく支配し、教育の名目で体罰・虐待・人権上も負の影響を子に及ぼす親、という方が、「毒親」被害者の戸村としてはしっくりくるように感じられます。
昔の話やどこか遠い国の話ではなく、奴隷は今も形を変えて存在しているように思われ、戸村的には毒親問題は家庭内の「現代の奴隷制(modern slavery)」と言っても良いと感じています。
毒親自身は自覚なく子に最悪なタイミングで最悪なことを良かれと決めつけ思い込んで行うケースも少なからず見受けられ、毒親本人はそのことを理解しようとも寄り添おうとも思わないこともまた少なからず見受けられます。
毒親にとって、「家庭内奴隷」やストレスのはけ口などの都合良く存在し続けて離れずにいる「生贄(生贄のヤギ:スケープゴート)」として、子を支配し心身や経済面などでも痛めつけつつ、毒親が社会的に非難や法令上の対応をとられると毒親として都合良くいられないこともあり、いわゆる「外面」は非常に良いように偽装するケースも少なからず見受けられます。
子が「うちの親はなんのために私を産んだのだろうか?」という問いに、場合によっては、「私が家庭内奴隷として親の生贄としてそばに置き続けるために、たまに優しい面もあったりするだけではないだろうか?」と思えることもありそうです。
それって虐待ですよ!虐待のパターン
「虐待」というと、なんとなく、叩いたり殴ったり蹴ったりするような、身体に傷ができることだけを想像されるケースも少なくありませんが、一般的には、「虐待」には身体の傷に限らず、さまざまな「傷」が残る言行があり得ます。
ここでは、こども家庭庁の児童虐待防止推進特設サイト(https://kodomoshien.cfa.go.jp/no-gyakutai/)に掲出されている、児童虐待の4つのパターンをご案内致します。
【虐待パターン① 身体的虐待】
「虐待」といった際に、一番イメージされやすいかもしれませんが、「殴る、蹴る、叩く、投げ落とす、激しく揺さぶる、やけどを負わせる、 溺れさせる など」による虐待がこのパターンにあたります。
【虐待パターン② 性的虐待】
「こどもへの性的行為、性的行為を見せる、ポルノグラフィの被写体にする など」も虐待にあたります。海外と日本国内での違いがありそうなのは、男女ともに親子で一緒に裸でお風呂に入る、ということも、国が違えば性的虐待になり得るものでもあります。
【虐待パターン③ ネグレクト】
問題が生じることがわかっていながら「何もしない」場合には、「不作為による作為」といった問題が生じ得ますが、虐待においても、「何もしていない」ことが問題になり得ます。ネグレクトには「家に閉じ込める、食事を与えない、ひどく不潔にする、自動車の中に放置する、重い病気になっても病院に連れて行かない など」によるものが虐待として挙げられます。
【虐待パターン④ 心理的虐待】
身体の傷よりも影響が大きくなり得る「心の傷」を負わせることも虐待として見なされます。「言葉による脅し、無視、きょうだい間での差別的扱い、こどもの目の前で家族に対して暴力をふるう(面前DV) など」による虐待が心理的虐待として挙げられます。
※問題は、これらの「虐待」に、親も子も家庭全体としても、「虐待である」と気づかない・気づけない・気づいても無理やり「虐待じゃなくて教育の一環だ」と押し切る、といったことにあったりします。
※家庭内も社会でも職場内でも、人権啓発の第一歩は、「気づき」(アウェアネス)です。まず、問題あることを問題あると気付く・認識することが大切です。
※分類法や識者によっては、経済的虐待やその他の各種虐待類型があり得るようですが、ここでは、こども家庭庁の虐待の4パターンをご案内致しました。
うちの家庭って変じゃないかなぁ~?「機能不全家族」って?
学術的な用語ではないですが、家庭内で家庭内の不和・DV・虐待などがあったり、薬物・アルコール・ギャンブル等の依存症のある親が負の影響を子に与える家庭環境だったり、家族どうしが共感・共鳴できず愛情の名目で子が親に支配される家庭環境などが、機能不全家族にあたるとされることが一般的です。
我が家では、小さい頃から息子を「子ども」というより「小さい大人」として息子の個性・多様性・意志を「大きな大人」と同じく人権ある人間どうしとして尊重して、息子が自分でいろんな選択肢の中からどうしたいかを決められるように、寄り添いつつ自律性を損なわないようサポートすることに努めて参りました。
また、親が勝手に思い込み決めつけて見誤るリスクも考慮し、息子にはオレンジリボン啓発カード(電話189や相談窓口なども記載のあるもの)や小学校で配布される悩み相談窓口のプリントや区の相談窓口の案内プリントなどをもっていてもらい、息子に「もし、パパがここに書かれているようなことをやったら、すぐに、電話したり相談したり通報するんだよ~。パパや先生や大きな大人たちがいつも正しいとは限らないし、うっかり間違ったり思い込みや決めつけで、小さい大人の人権をつぶすことだってあり得るかもしれないからね~。」と、親として万が一にも暴走した際の安全対策に気を付けるようにしてきました。
一方で、同じように見えそうですが、機能不全家族で子を「大人」と同じように扱う、といった場合は、子どもの権利・人権などの観点を抜きにして、子に生育・発育・成長に必要な家庭内の「大きな大人」からの支援を与えず、「大人なんだから~しろ」(場合によっては、自分で稼げ、自分で料理を作ったり親の料理も作れ、親の世話をしろ、社会は厳しいんだからこれくらいのきつい対応(虐待等)は我慢するのが大人だ)といった、歪んだ身勝手な「子どもを大人扱いという名目での人権侵害・子どもの権利侵害」が見受けられたりもします。
そういった歪んだ身勝手な「子の大人扱い」が、学術用語ではないですがアダルトチルドレンやヤングケアラー(お手伝いや家庭での親子の交流などの範囲を超えて子の健全な発育・成長に支障/負の影響が生じ得る状態で本来は大きな大人がなすべきことを未成年の子が日常的に代わりに行っている問題)などの問題の背景にもあるように見受けられます。
これが無条件の愛情なの?「条件付き愛情」って?「家庭内の愛情獲得ディール」「自分らしさを育てる花壇」
条件付き愛情って、「~したら愛してあげる」とか、親の思うような範囲に収まって「良い子」であれば愛してやる、「愛されたいなら~の条件を満たせ」といった、「家庭内の愛情獲得ディール」((C)戸村智憲)とでも言えそうな状態です。
私の両親(育ての父と産みの母)との家庭環境では、どこかの大統領が好きそうな「ディール」が、家庭内で日常的に長期的に愛情の絶対条件となっていた感じでした。
無条件の愛(あるいは無条件の愛情)であれば、子が親の思うように育たなかったとしても、また、子の価値観・個性・得意不得意などが親にとって「都合が悪い」としても、子の多様性・個性・意志を尊重して愛情をもって接するところかと思われます。
親と愛情をもって心の交流をしたい・想いを寄せたい・敬いたいと自然と思えるような状況を超えて、親の顔色をうかがい、親に忖度して、親の「ストライクゾーン」にすべて入った言動を行う子ですよと示さない限り愛情をもって接してもらえない状態は、条件付き愛情による親の子を支配する親にとってのみ都合の良い心理作用をもたらすものでもあります。
逆に、親の「ストライクゾーン」から外れる言動や思考を示すと、徹底的に泣いても謝っても子の心に芽生えた自分らしい可能性の芽を根絶やしにするほど、心身に虐待を加えて「教育」(子の多様性を公正公平に尊重して受け入れより良い方向性に向けて寄り添ってサポートを行う)のつもりで、教育やしつけといったもっともらしい名目で「教化」(民主国家では否定される思想統制・刷り込み・洗脳や画一化(こうすればいいんだと押し付けることなど))をして、親が子を愛する条件にあうまで子を痛めつけて「わからせる」言行があったりします(少なくとも私は小さい頃から両親に何度も悩まされ苦しめられてきたところです)。
「家庭内の愛情獲得ディール」は、時として、明に暗に「子ども思いの優れた親として敬え」といった形でも現れてくることもあり、家庭内でキャバクラのキャバ嬢さんや接待の場のように、親に子が「家庭内での接待」が条件になったりしたりもします(私の場合は特に育ての父がそうでしたが…)。
その一方で、そもそも、無条件の愛情がなく、相手を公正公平に尊重して受け入れようとしないこともあり、私が自分らしい可能性や楽しみや幸せを感じる芽を育ててきた「花壇」を親がみつけると、特に産みの母は半狂乱という言葉がフィットしそうですが、徹底的に「私の芽が育った花壇」を精神的に爆撃して根絶やしにして雑草すら生えないほど荒廃させたうえで、「あなたの幸せのため」といったもっともらしい名目で、親(ここでは産みの母)が都合よく決めつけ押し付ける「この花壇でこの種をまいて育てればいいに決まってるでしょ!」という、世界でひとつだけの花を咲かせることを許されない独裁的・支配的な状況があり続けていたりします。
そのため、小さい頃から自分らしさ・自分の可能性をつぶされないよう、親にはダミーの花壇で「はい、あなたの思う通りのストライクゾーンから一切はみ出さない子ですよ~」と見せかけの土いじりでカモフラージュしつつ、親の気付かぬところに自分だけの花壇をゼロから耕してひっそりと芽を大切に育ててきたりしました。
しかし、人生の大切な節目節目で、その花壇が見つかるや否や、徹底的に花壇をピンポイントに爆撃され根絶やしにされてきたり、学業も仕事のチャンスも心身の健康も害されるまで、親の身勝手な決めつけで子としての可能性や心身・経済面などさまざまな面で負の影響を最大限に及ぼされてきたりするなど、毒親の心の闇は根深く暗く、外面の良さにカモフラージュされて他者への負の影響も気づかれにくく救済もされにくい面があるように見受けられます(少なくとも私はそうでした…)。
子は親の奴隷ではなく、親も子の奴隷ではない: 子も親も共に同じ人権ある存在 & 家庭が「心の安全基地」になっていますか?
人間がおぎゃーと生まれてきた時から(場合によっては産声すらあげられないケースもあり得ますが…)人生を「卒業」する時まで、ディールや交換条件によらず、人間に生まれながらに備わっている「諸権利」が人権(諸権利なので英語にすると複数形でHuman Rightsとなります)です。
条件付き愛情は、子の人権を親の都合や損得で取引するようなものかもしれず、家庭内で子としての人権を与えられたければ親の求めるこの条件を飲め・これを犠牲にしろ・このことは代償として支払え、といった、そもそも人権の理念と大きくかけ離れたもののように思われます。
息子には、「子は親の奴隷じゃないよ~。逆に、親も子の奴隷じゃないよ~。親も子も、人権を大切にお互いに思いやりをもって寄り添って生きていくんだよ~。」といったお話しをしております。
子の自律的/自立的な成長の支障となるような、親が子の奴隷のように、時として過保護になったり、時として子のいいなりになったりすることは、必ずしも人権上も子の健全な成長の面でも良好な状況とは言えなさそうです。
子にも親にも思いや意志や個性・多様性などもあり、当然に、子にも親にも人権があります。
ただ、一般的には家庭内で圧倒的に「優越的な地位」に立ち得る親の権利行使には、子を委縮させたり忖度させたり思いがけず子を支配するような状況にもなりかねず、十分な留意が必要です。
子も親も、家庭内での暴力や虐待や怒鳴ったりせずに、お互いに思いや考えを伝え対話していけるよう、必要に応じてアサーティブ・コミュニケーション((一言では「アサーション」)相手の人権・多様性を尊重しつつ伝えたいことを一方的でもなく過剰な感情的対応でもなく良好な関係性を保ちつつ胸襟を開いて誠実に対話すること)のスキルを習得することも、家庭内の人権擁護で大切な面があろうかと思われます。
家庭が「心の安全基地」になっていますか?
家族が信頼をもって寄り添えていますか?
押し付けや決めつけで多様性と真逆の(自分にとって都合の良いだけの)画一化を進めていませんか?
精神疾患等でのやむを得ない場合を除いて子(または親)が相手に暴力(言葉の暴力・心理的な暴力も含む)をふるっていませんか?
そもそも、家庭内でお互いの人権を肩肘はらず意識したり話し合えていますか?
家族以外の第三者や児童相談所の職員さんが見ても、家庭内でお互いの人権が尊重されていると判断される状況ですか?
家庭内での閉鎖的な「優越的地位の濫用」: 子の多様性・個性・意志などを尊重するなら「親にとって都合が良いとは言えない」ことも受け入れる
親って家庭内で絶対的な地位というか少なくとも子に優越する地位を築いていたりします。
取適法(下請法)では、公正取引委員会によれば、「優越的地位の濫用とは、自己の取引上の地位が相手方に優越している一方の当事者が、取引の相手方に対し、その地位を利用して、正常な商慣習に照らし不当に不利益を与える行為」といった解説がなされていたりします(出典:https://www.jftc.go.jp/shitauke/kousyukai/gaiyou.html)
要するに、言い換えますと、「仕事を依頼する側って強い立場だったりするから、取引で一方的に無茶な要求とかしちゃダメだよ~」ということになりそうです。
毒親が子と「条件付き愛情」で「家庭内の愛情獲得ディール」というか「愛情関税の取引交渉」というか、優越的地位の濫用で子を支配(支配と自覚していなくても実態として支配しているケースが圧倒的に多そうですが…)する際、企業同士の違法/不適切な取引は公正取引委員会が取り締まりますが、閉鎖的な家庭内ではどうでしょうか?
主に、児童相談所(児相)や緊急性・生命等の危機にあっては警察等が、通報や相談があればチェックしたり救うお手伝いをしてくれたりもしますが、そもそも、家庭内の問題の通報って誰がどうすればいいのでしょうか?
まず、毒親の負の影響を受けている子が、
①そもそも、「それって子の権利侵害・人権侵害だよ!」と気づいていることが必要
②毒親でもまがりなりにも親と心を交わし寄り添って共感しながら生きていきたい子が、見ず知らずの相手(児童相談所や警察等)に相談・通報するとてつもなく膨大な心理的負荷を超えた勇気を持てることが必要
③勇気をもって子が相談・通報しても、逆に、家庭内で「公益通報への報復」として虐待リスクにおびえなくて良い状態を整えることが必要
という、主に大きな3つの必要性に直面してとまどいためらい泣き寝入りし続けることも少なくないかと思われます。
そのため、少なくとも、制度や法令について中立・客観の立場から冷静に対応できる周りの大きな大人たちが、毒親のやっていることに対して「そうそう、虐待って大げさだよ!『それって教育とかじゃないの』」とか、「昔はよくあったことだし通報とかって大事にしなくても…」といった、「毒親が毒親で居続けるための援護射撃」や「毒親問題の間接的な加担」などがないように、「通報」といった大事っぽいことでなくとも「情報提供」などとして、電話「189」(全国共通の児童相談所虐待対応ダイヤル)に連絡しておくなど、地域社会が家庭内の優越的地位の濫用・暴走をセーブできるようにしておくことが大切かと思われます。
毒親は自分が優越的地位を「濫用」しているとも、また、「濫用」とみなされ得ることが悪いことだとも思っていないケースが少なからずあるように見受けられ、逆に、「良き教育者」とか「良き親のふるまい」などといったように、子に負の影響を与えている自覚が微塵もなく、場合によっては、良かれと思って子を心身ともに一方的に叩き潰してしまっている状況もあったりしそうです(私はそのケースが延々と続いています…)。
つい、親をかばいたくなったり、自分の親が毒親であると認めたくない心理があったり、家族のことを明かすと家族の悪口を言っているようなものではないだろうかとためらったり、子の方がはるかに「大人な対応」に終始しがちなのかもしれません。
しかし、「毒親による優越的地位の濫用」に思いやりのある歯止めをかける上では、直接、親子の健全で良好な対話が難しい場合は、「外堀を埋める」というか、「家庭外の客観的な視点が入る」形などで、一定のブレーキをきかせることが必要な面もありそうです。
私は、その一環として、ライフワークとしている「人権啓発」の観点や、「ビジネスと人権」やESGなどで「ビジネスプロセスやビジネスのシーンを通じて社会を良くする対応」を進める上で、「毒親ラボ」のページを開設してみたりしております。
「毒親ラボ」の開設は、毒親な産みの母を社会的非難の対象としてつるし上げることは全く意図せず、あくまでも、「家庭内の優越的地位の濫用」に思いやりある歯止めをかけ、人権侵害が酷くならないよう防衛する意図によるものです。
また、その防衛策が、どなたか同じように毒親にお悩みの方の気付きや一歩踏み出して毒親の呪縛をといて自分の心を癒しながら自分の「花壇」で自分らしい「芽」を育てるきっかけになれば、ビジネスを通じた社会問題の解消アプローチとしても、ある程度は意義があるかもなぁ~と思う次第です。
「昔からよくあること」という都合の良い言い訳: セクハラ・性暴力・パワハラ・体罰・虐待も昔は「当たり前」のようにはびこっていたことを都合よく持ち出すケース
毒親の問題について話していると、例えば、こんな「ありがちトーク」を耳にすることも…
ありがちトーク①: 「そんなこと、昔からよくあることじゃないか!そんなことでゴチャゴチャ言う方がどうかと思うよ?」
ありがちトーク②: 「他の人もやってるじゃん!(駐車違反や横断時の信号無視や不法投棄などの言い訳のように)」
ありがちトーク③: 「昔は良かった(多分、そう言っている人にとって身勝手に都合が良かっただけなのかも…)」
そういった言葉は、毒親の問題で毒親以外の野次馬さん・周りの責任を負わず被害も受けないで「気楽に」つぶやける方などから、少なからず私も耳にしたり目にしたりすることがあったりします。
毒親の言い訳にも使えそうですし、自分が毒親と言われたくない人にとって、予め予防線を張っておきたい心理によるものかもしれませんし、いろんな受け止め方があろうかと思われます。
以下に、それぞれに「戸村ツッコミ」を入れてみようかと思います。
ありがちトーク①: 「そんなこと、昔からよくあることじゃないか!そんなことでゴチャゴチャ言う方がどうかと思うよ?」
毒親の問題だけに限らず、セクハラ・パワハラをはじめ、性暴力やカスタマーハラスメント、さらには、体罰や虐待なども、同じような「ありがちトーク」を耳にすることがあります。
昭和の時代なら、職場で女性の職員さんのお尻を男性の職員さんがペロンと触って、「キャッ、やめて下さいよ~!」といった反応が女性側からあった際、男性側が「なんだよ~、仲間どうしのコミュニケーションじゃん!」と逆ギレしたり、今でいうセクハラをしないようお願いする側が問題児のような扱いを受けたりしたようなこともありがちでした(注:同性同士でも女性から男性にもセクハラは成り立ち得ます)。
社会が成熟するにしたがって、また、法令が整備されるにしたがって、善悪のボーダーラインがググっと厳しい対応の方向に動いていき、今では、セクハラ一発アウト・懲戒処分といった状態になるかと思われますが、昔からよくあったことだとしても、昔と違って今はアウトですし、昔のままで今も同じことを続けて許されるわけではありません。
「お客様は神様だろ!客の言うことが聞けないのか!」といった「疫病神」や「他の神様のご迷惑になるお客様による問題行為」であるカスタマーハラスメントは、昔からよくあったことですが、今は、顧客等からの店員さんなどへの人権侵害・違法/不適切行為について、法令により厳密に対応されるようになりました(労働施策総合推進法でのカスタマーハラスメント対策の義務化は2026年(令和8年)10月1日からですが、先行して、条例による対応や、条例によらずとも既存の法令に沿った対応(強要罪や脅迫罪など)でも粛々と対応されるようになりました)。
「昔からよくあったこと」が人権侵害・違法/不適切行為である場合、「昔からよくあったこと」をこれからも積極的に社会にはびこらせる必要性やそうすべき根拠は、どんなことなのでしょうか?
ありがちトーク②: 「他の人もやってるじゃん!(駐車違反や横断時の信号無視や不法投棄などの言い訳のように)」
こういったことも、少なからず耳にしたりします。
例えば、「他の人もやってるじゃん!」と言われたりしがちで、大手メディアも著名な芸能人・アーティスト・業界人にも関わる「性暴力」や、食品・建築・品質などのいろんな「偽装」も、官・民・自治体などさまざまな職場での「パワハラ」など、昔は押し通していたとしても、今は「他の人」もみんな揃って摘発されたり有罪判決を受けたり損害賠償訴訟で敗訴したり、ずっと押し通せるものではないことは、昨今の報道を見ていてもわかりやすい状況かと思われます。
要するに、「他の人もやってるじゃん!」=「今の不正のツケをみんなでそのうち償わされるまでの間の身勝手な言い訳」ということかもしれません。
ありがちトーク③: 「昔は良かった(多分、そう言っている人にとって身勝手に都合が良かっただけなのかも…)」
こういったトークも、監査指導や不正調査などで、問題を起こした方やヒアリング調査した方から耳にしたりすることがあります。
「昔のすべて」が「すべての人にとって良かった」ということはあり得なさそうで、少なくとも、「昔がすべて悪い」わけではないでしょうが、「昔は押し通され人権侵害・違法/不適切行為で悲しむ人がいた」としても「都合の良い人たちがいた」ということなのかもしれません。
逆に、「今のすべてが良い」わけでもないでしょうし、今の時代や状況にも改めるべき点が多々あろうかと思われますが、「じゃあ、昔の状況に戻せ!」ではなく、「これからさらにより良い状態を目指して進展・適応していこう!」ということが社会的に求められているように思われます。
また、「昔は良かった」という「昔」が、無意識のうちに、例えば高齢者の方が現役としてご活躍だったころの昔の時代と決めつけてしまっている可能性もあり得るのかもしれませんので、慎重に、「昔」=「縄文時代」や「平安時代」や「安土桃山時代」なども多用に想定してみようと思いましたが、民俗学者・歴史学者でもない私には、なかなか詳細な社会状況の理解が及ばず、大変申し訳なく思います。
毒親問題にしても、毒親の問題以外でも、昔からよくあったことや押し通されてきたことが、積極的に今後も続けるべきものではないことがあったり、今が絶対的に良いというより今も改善の余地をもって今後もより良い方向性を目指していくことであったりする、ということかと思われます。
いつまで、無理のある話を押し通しますか?
いつ、その押し通したツケを償いますか?
そもそも、無理に押し通さず、お互いに幸せになりあえるようにしていければいいんじゃないですか?
DV(ドメスティック・バイオレンス)で妻/夫や彼氏/彼女が暴力・人権侵害をうけるのはいいの?妻/夫・彼氏/彼女ではなくそれが子だったら?
よくあるお話しですが、「教育として厳しくやっているだけだ!」という名目・言い訳で、体罰や虐待をもっともらしく良い人の行いであるかのように、不正/不適切なことを正当化なさるケースが職場でも学校でも家庭でも社会でも見受けられます。
場合によっては、それが、「愛しているからだ」とか「お前のことを思ってのことだ」といった、愛情表現や思いやりであるかのように姿を変えて、DVの場で現れたりもしがちです。
夫から妻(妻から夫のパターンもあります)・彼氏から彼女(彼女から彼氏のパターンもあります)に、精神的暴力や肉体的な暴力がふるわれ、その後、急にやさしく接してきたりして、「暴力をふるうけど、ほんとは優しい人なんです」と人権侵害を受けた被害者が加害者をかばうケースもあります。
正当化がお好きな方がよく引き合いに出される「昔話」をひもとくと、「昔は酒を飲んで家族に暴力をふるうダンナはあちこちにいたもんだ」とか、「昔はダンナがイラっとしたら、夕食の乗せられたちゃぶ台をひっくり返して怒鳴りつけたもんだ」(某アニメの影響もあるかもしれませんが…)とか、「無責任な昔話」が「今も人権侵害・違法/不適切な言行」を行っても「許されるべきだ」という、根拠にならないものの絶大なる不思議な自信をもって語られるお話しがあったりもします。
昔は暴力・乱闘がたびたび見受けられた野球をはじめとする「勝つために」取り組まれている部活動・スポーツ・プロの世界ですら、暴力(精神的な暴力も含む)をふるうことが許されない現状になってきましたが、依然として、家庭という閉じた世界では、まだ心身への暴力が毒親問題としても散見されます。
配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律(配偶者暴力防止法: いわゆるDV防止法、2001年10月施行)で厳しく対処されたり、DVの被害から緊急回避・避難するための「DVシェルター」もありますが、毒親問題では、DV防止法の1年ほど前に施行された児童虐待の防止等に関する法律(児童虐待防止法:2000年11月施行)もありつつ、かなり「教育」という名目・言い訳が幅を利かせているのか、違法性は帯びなかったとしても少なくとも不適切な問題が、延々と続いているようにも見受けられます。
また、DV問題でも成人や未成年でもある程度の行動力・判断力がある年齢の方々でも、なかなか「そもそも、これってDVだよね?」と気づけない状況もあったり、勇気を振りぼって相談・通報するのも大変かと思われます。
毒親問題では幼い無批判な頃からの親子関係からスタートして、子が「そもそも、これって虐待だよね?」とか「親が子に負の影響を及ぼしているよね?」と気づけない状況だったり、勇気を振り絞って相談・通報するのも幼かったり何をどこにどう言えばいいかわからなかったりして、もっと大変かもしれません。
仮に、60歳の夫が55歳の妻にDV行為を行ったとして、当然に、法令上も人権侵害・違法行為は許されないわけですし、それが、40歳の妻が35歳の夫に対してDV行為をしても同じく許されませんし、もちろん、30歳の彼が18歳の彼女にDV行為をしても許されません。
そして、30歳の親が12歳の子に人権侵害・違法/不適切な行為をしても許されないわけで、毒親問題は積極的にも消極的にも看過していいものとは思えません。
また、人権の基本的なスタンスとしては、あなたの人権が守られる上で、他者が人権侵害にあっている場合に、あなたも何らかの人権救済への支援や理解を示す責務がある、というお互いに守りあうことがベースになっています。
毒親問題でもその他の人権侵害や違法/不適切行為においても、「間接的な加害・加担」や「見て見ぬフリ」と言われがちな「不作為による作為」や「積極的な黙認」は、人間が人間として扱われる社会でのNG行為で、人間が奴隷として扱われる社会にしたいのか?と疑いの目で見られるものかもしれません。
「親子」以前に、「同じ人権ある人間どうし」が、奴隷としてではなく人間としてお互いに幸せになりあう取り組みは、忌み嫌われて排除されるべきものでしょうか?
殴る蹴る・怒鳴りつけるなど「カスタマーハラスメント」で「お客様」が「店員さん」を痛めつけるのはいいの?客と店員ではなく「親」と「子」だったら暴力や人権侵害は黙殺されるべきなの?
以前は「ハードクレーム」といっていたことでもありますが、お客様という「優越的地位の濫用」で、サービスや商品を提供する側の方々が、人権侵害・違法/不適切行為の被害にあわれるカスタマーハラスメント問題は、よくいう「昔からある」ことではあります。
だからといって、今もこれからも、ずっとそのままで良いわけではないのは、毒親問題と同じかもしれません。
労働施策総合推進法によって、2026年(令和8年)10月1日から、カスタマーハラスメント対策の義務化がスタートすることとなりました(企業間取引でも同様)。
法律に先立ち、東京都をはじめとする自治体で、条例によってカスタマーハラスメントを禁じる社会的な動きもあり、「お客様は神様だろ!」といって何でもかんでも押し通せるわけではなく、人権侵害・違法/不適切行為は退去要請や警察への通報を含めて厳しく対応されることとなりました(もとから当たり前といえば当たり前のことかと思われますが…)。
お客様(顧客等)が、店員さん・サービス/商品の提供者側の役職員さんの人権侵害・違法/不適切行為で負の影響を及ぼすことは、法令上、許されないものと明確にされるようになりました。
逆に、毒親問題でも同様でしょうが、なんでもかんでも「カスタマーハラスメントだ!」と、お客様(顧客等)からの正当な申し出(クレーム)に対して、なおざりな対応が許されるわけではありません。
要するに、お客様(顧客等)も、お店の店員さんや役職員さんも、同じ人権ある人間どうしとして、お互いに人権・多様性などを公平公正に尊重して受け入れあいましょう、相手への人権侵害・違法/不適切行為はやめましょう、といったお互いの人権を守って良好な関係を築きましょう、というものです。
相手の人権を侵害した場合は、侵害した側に制裁(刑罰・民法上の賠償責任・退去要請や出入り禁止措置などによる人権に一定の制限が加えられるもの)が課せられ、侵害された側は毅然と相手の要求や申し出への対応を断ったり警察に通報して対応してもらったり、会社・職場でメンタルケアなどを受けたりして救済措置が講じられるという、人権対応の基本線に沿った対応が進められるわけです。
毒親が子に人権侵害や違法/不適切行為による負の影響を及ぼすことは、職場の各種ハラスメント対応とは異なりますが、親が子にする「ハラスメント」として、毒親問題が法令上の措置を行うようになることもあるのかもしれません。
家庭内のことに首を突っ込むな、ということもあるかもしれませんが、毎年のように、猛暑・炎天下の夏の駐車場では、幼い子どもをひとりで車内に置き去りにして、親がギャンブルや遊興にふけり、駐車場に戻ってきた時にはその子が熱中症で命を失っていたことに気づく、といった、痛ましい事件も報道されます。
海外では、幼い子どもをひとりで車内や家にいさせることを禁じる法律があったりしますが、日本では文化風習などの違いもあってか、まだまだ子への痛ましい状況が野放しになり続ける面があるようにも感じられます。
なんでもかんでも法律でがんじがらめ、というのでは息が詰まりそうですが、かといって、なんでもかんでも野放しにしてしまうのは、救われるはずの命や心が身勝手に失われる悲しい状況を招きかねませんので、バランス感ある対応が求められているように思われます。
親は絶対的な「神」のような存在なのですか?
それほど親として全知全能で違法行為もなくミスもすることのない立派な親なのですか?
子は「親という神」にささげられる生贄なのですか?
なぜ「条件付き愛情」を親に押し付けられる子の方が、「無条件の愛情」「無批判の隷従」を親に提供しなければならないのですか?
誰でも加害者・被害者になり得る: かつての「毒親」被害者が親になったら忌み嫌っていたはずの「毒親」になり得る
ニワトリが先か卵が先か、堂々巡りの議論は果て無く続きそうですが、親ニワトリに負の影響をうけて「毒親の被害者」となったヒヨコは、育って親ニワトリになった際に、うっかりなのか意図的なのかは別として、ふと、かつての被害者ヒヨコさんが毒親ニワトリになってしまうこともありそうです。
昔で言うハードクレーム、今でいうカスタマーハラスメントの「被害者」となった方々でも、つい、ストレス解消に飲み会に出かけた際に、居酒屋の店員さんに横柄な態度でカスタマーハラスメントの「加害者」になっていたりするケースも、カスタマーハラスメント対策の指導などをしていて見受けられたりしました。
ここで、毒親の被害を受けた方が、①「ストレス解消」をしたいことと、ストレス解消のために訪れた飲み会で居酒屋の店員さんに②「カスタマーハラスメント・人権侵害・違法/不適切な行為を行うこと」とは、混同しないようにしておかないと、誰でも被害者だった人が加害者になりかねません。
もし、①の「ストレス解消」に②の加害行為が必要なことだとしたら、おそらく、心療内科やカウンセリングの現場は、壮絶な加害行為の惨状が繰り広げられることになってしまいそうです。
①の「ストレス解消」を②の加害行為なく行えるよう、心のケアの問題を「人を責めず問題を解決する」観点から、③「誰かを自分と同じ目に遭わせて悪質な共感を得る」とか、④「私だけ不公平な目に遭うのはおかしいから誰かを同じ不公平におとしめる」とか、⑤「私は被害を受けたから何をしても被害者として許される」といったことのないようにしておくことが、被害者が加害者に転じないために大切なポイントだと思います。
もっとシンプルに、①の「ストレス解消」のために、バッティングセンターで打ちまくるとか、心療内科の受診やカウンセラーに打ち明けるとか、お酒を飲んでセーブが効きにくい人がお酒を飲みたい場合は、そもそも、店員さんや家族など傷つけてしまいかねない誰かがいない状態で、一人住まいの「宅飲み」や、お手頃ホテルで一人酒にふけって寝るなど、自分のメンタルケアの問題も「人を責めずに問題を解決する」ようにしていければいいように思われます。
毒親としては、自分の心のケアのために、誰かを同じ心理的負荷のもとに置かせる・同じ目にあわせる・かつて被害者だったから救済されるためには何をやっても許されるべきだ(歪んだ認知ですが…)といった感じだったり、毒親がかつての被害者の心に共感してもらいたくて、そういった負の影響をもたらしている面について、頭の片隅に置いておく方が、毒親への対応に被害者側の子による毒親への人権侵害・違法/不適切な行為が生じにくくなるかと思われます。
もしかすると、毒親もかつての被害者かもしれないのでは?
毒親は毒親なりに、かつての被害者の自分の心に共感を求めて、負の影響を及ぼしているかも?
毒親の被害者側の子であるあなたまで、加害者にならないで済む方がいいですよね?
「人のふり見て我がふり直せ」って、毒親を見て自分も毒親になってしまわないよう気を付けることかも?
被害者の救済は、何をやっても許されると、ふと、思ってしまっていませんか?
「毒親」は、親子関係だけでなく、社会的にお互いの多様性の公正公平な尊重と受け入れあい(離れるべきなら離れてお互いを尊重できるようにする良き距離感)が大切ということ
毒親問題も「サステイナブル」に対応
「サステイナブル」という言葉は、世の中にたくさんあふれていますが、指導にあたっていると、企業の現場では、とかく「環境問題」についてのお話しなのでは?という誤解があるようです。
環境保護などだけではなく、外資系の企業の現場でお話ししていると、ごく普通に、「この日本でのビジネスのやり方って、サステイナブルじゃないよね」という会話もあり、もっと広い意味で使われたりします。
戸村版の「サステイナブル」のはやわかり解説として、5つのポイントでまとめてみると、
「①ムリなく、②ムダなく、③長続きする、④理にかなった、⑤お互いに幸せになりあう取り組み」
という感じです。
①ムリなく毒親問題の対応を進める際に、何が何でも親と同居しなければならない、児童相談所や保護施設に行ってはならない、ということはないですので、心身ともにムリがあるなら、毒親と離れて関わらない状態で生きて行って特に問題はないかと思われますし、そうすべきケースもあろうかと思われます。
ムリに毒親と同居したり毒親のサポートに明け暮れてしまい、心身の余裕や正常な判断力を失って、毒親をあやめてしまうという事件もあったりしますが、誰でも被害者にも加害者にもなり得ますので、お互いの幸せのためには、ムリせず離れる・(心身の)距離を置く、ということも理にかなったことと思われます。
②ムダなく毒親問題に対応する上で、子がムリをして大切な人生の時間も心身の健全さもムダにすることがないように、相談窓口で客観的なアドバイスを得ておくのも大切かなぁと思われます。
つい、「親を悪く言う」ような申し訳なさを感じそうですが、「悪く言う」のではなく、「毒親のありのままを伝えて相談する」だけで良いですので、嘘も悪口も変にかばうこともなくていいように思われます。
相談窓口で公的支援や移住などでの補助金・助成金も活用して、私費だけでの対応ではムダが多くなりがちなところも、しっかり毒親対応のコスト削減もしておけると良いかもしれません。
今は少子高齢化で地方の空き家問題が社会的な課題となる中で、移住すると補助金や家ももらえたりする政策を打ち出す自治体もありますので、ムダなくかしこく対応できるとより良いように思われます。
③長続きする毒親からの心身の防衛になるように、身近にいるとしんどいようなら距離をとって別の場所で生き暮らすことも良いでしょうし、距離をとれない・別の場所で生きにくいようでしたら、毒親は毒親、自分は自分、といった心の距離をとるようにしておくのも良いかもしれません。
毒親問題は一瞬だけ「最大瞬間風速」で我慢してなんとかなる問題とは限らず、一生涯にわたって、親が生きている間(場合によっては親の逝去後にも負の影響が残る場合もあり得ますが…)はずっと毒親の負の影響があり得ます。
リスク管理・危機管理やレジリエンス(粘り強く立ち直る/立て直す力)の「3つの鉄則」として指導していたりしますが、(1)ダメージをなるべく少なくする、(2)なるべく早く元の健全な状態に戻す、(3)同じような事態に備えて次の備えを積み増す、という3つの観点から、毒親問題にも備えておければより良いかなぁと思います。
④理にかなった毒親問題の対応に際して、毒親にも子にも人権がある、という点は、毒親の肩を持つのではなく、奴隷でなく人間である以上は大切な「理」となりそうです。
もちろん、毒親の人権といっても、加害行為をする人は刑罰や民法上の賠償責任や、各種法令で身勝手・気ままな自由は一定程度の制限を受けることになり得ますし、子の損なわれた人権が救済されるべきものでもあるのは当然かと思われます。
極端な話かもしれませんが「殺人犯にも人権がある」というと、殺人犯の肩を持っているような印象・感情的判断がなされかねませんが、その意味は、殺人犯は手錠をかけられたり自由が制限されたりする一方で、裁判を受ける権利や弁護士をつける権利がある、といったことに過ぎません。
殺人犯だから殺人犯に何をやってもいい、ということはありませんので、殺人犯のご遺族の方が、大昔の武士の時代にありそうな「かたき討ち」「仇討ち」として、殺人犯をあやめて良いわけではありません。
殺人犯に被害者側の処罰感情による刑法上の対応を求め、殺人犯の人権も擁護しながらも、刑事裁判・刑事罰・拘禁刑(昔でいう懲役刑・禁錮刑)による刑務所送り(といっても、日本では国際人権規約Bによらず死刑制度がありますので、死刑以外は基本的に反省を促すことが刑務所服役の制度上の主目的となるようです)によって、粛々と対応することになります。
毒親問題は殺人犯と全く同じではないですが、人権・刑法・民法・各種法令(条例等も含む)に沿って、理にかなった対応が求められます。
感情的に被害者側の子が暴走してしまうと、あっという間に、被害者側だった子が人権侵害・違法/不適切行為の加害者になり果ててしまいかねませんので、子の側は心身の多大な負の影響を受けながら大変なところですが、毒親問題の対応に子の側の冷静さが必要になったりします。
過去に、いわゆる言いがかり訴訟や恫喝訴訟(スラップ訴訟)などを受けた経験がありますが、勝手気ままに訴訟権の濫用(濫訴)や法の曲解やそもそも違法行為を行っていないのに行っているといった主張で裁判を起こしてこられた方々への対応にも、冷静にひとつずつ根拠や証拠や主張を積み上げて、人権や法制度の手続きに沿って時間も心の労力もコストもかけて対応しなければならないのは、毒親問題に限らず、「正しさ」を求める際に負わされる不条理のようにも感じられたりもしました。
裁判で裁判官から原告側に証拠を出すよう要請されても、原告側は証拠を出せず(というかそもそもこちらが違法行為をしていないので出しようがないですし、出せば虚偽の証拠の提出で原告側が違法となりますし…)、最終的には原告側が裁判を取り下げ謝罪すらないという、無茶苦茶な裁判も被告側にでっちあげられて経験しました。
時として、もどかしく理不尽に思えたりもしますが、裁判を起こす権利をはじめ、人権・法令・各種制度の活用が自由にできる方が、奴隷的な扱いで有無を言わせず従わされる社会よりはるかにマシかとも思われます。
⑤お互いに幸せになりあう取り組みを毒親問題で考える際、同居することがお互いに幸せになりあえないのなら、ためらわず、別居・離れて暮らして構わないということになりますし、泣き寝入りでなく相談・通報・訴訟がないと子の心身の安全や安寧が得られなければ、毒親が気づいたり共感したり理解したりしなかったとしても、毒親がもっとエスカレートしてしまうのを「想いやりある歯止め」をかけるために、冷静に必要な対応をとっていく方がお互いにとって良いということになろうかと思われます。
毒親には毒親なりの人権・多様性など(ただし法令等により一定の制限はかかるかもしれませんが…)のもと、子は子としての人権・多様性などのもと、公正公平な観点や手続きなどに沿って、毒親からの共感や理解が得られなくても、お互いが今よりマシな状況を受け入れて生きていけるようになればと思います。
毒親問題でムリしてませんか?
毒親問題の対応でムダはありませんか?
今のやり方で長続きしますか?
理にかなった対応になってますか?
お互いにマシな状況・お互いなりの幸せへ向かえそうですか?
逆に、介護や看病が必要になった親になったとして、同じように支配・虐待・ネガティブなことをされたいですか?
「毒親だのなんだの、甘っちょろいこと言いやがって、社会はもっと厳しいんだぞ!社会が厳しいことを教えてやってるんだぞ!」
といった反論にならない主張をする人もいたりします。
また、「毒親」の部分を、「セクハラ」や「パワハラ」や「虐待」などに置きかえて、同じような感じでお話しになる方もいらっしゃいました。
中には、「社会の厳しさを教えてやってるだけだ!何も悪いことはしていない」という、「教育」の名目で体罰や虐待やハラスメントを正当化して開き直る方もいらっしゃいます。
他にも、「俺/私に~が社会ではハラスメントになるんだよって言ってるお前が、いまそう言って責めて俺/私にハラスメントしてるんじゃねえか!」(ソフトに丁寧に非難せずに伝えても理詰めで激しく責め立てられたとか主張したりもする毒親がいます…)という、徹底して被害者ヅラをしたい・俺/私は責められてかわいそうポジションに立ちたがる・子の正当性を認めないし理解しようともせず、理屈にならない理屈でも「言い返し」さえすれば自分は正しい、といった、歪んだ認知(認知症に罹患していなくても誰でも二日酔いや疲労などでも認知は一時的にでも歪み得ます…)のまま、ムリを押し通してくる毒親もいます。
そこで、「じゃあ、わざわざ持ち出す必要のない社会の厳しさを、逆に、あなたにお示ししましょうか?」という感じで、毒親が逆に社会の厳しさにさらされたら、毒親としては幸せなのでしょうか?(というか、全力で被害者ヅラ・被害者アピール・報復などをしてくるかもしれませんが…)
毒親が看病や介護が必要な際に、「社会は厳しいから、自分で自分のことをしましょうね~」といって、身一つで家の外に追い出して内側からカギをかけ、「はい、自分で病院に行きたければいきましょうね~」とか、「マイナンバーカード保険証がないとか、甘っちょろいこと言ってないで、高齢化社会は厳しいんだから、自分でなんとかしましょうね~」といったことって、毒親は同じ論理・ルールでやり返されたいのでしょうか?
毒親も一定の制限があってもある程度の人権や自由は認められ得ますし、障がい者・要介護者等への虐待などはお互いの人権擁護・人権救済の観点からも法令の観点からも、実際には行うべきではないことですし、脅迫的に示すことも避けるべきでしょうが、仮定の話として、同じルールで対応されて本当に幸せなの?と思ったりしそうです。
論語っぽく言えば、「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」という感じかもしれませんが、毒親的には、子には親に対してそう主張しつつ、毒親自身は「子の欲せざるところ、好き勝手に施して良かれ」という感じで、家庭内の優越的地位の濫用にあけくれるあたりが、なかなか悩ましいところでもあります。
また、「子の善意を逆手に取る」ことにもたけていたりして、毒親に看病や介護などが必要になって弱い立場に立たされそうになると、「弱い立場の者に社会は厳しいとか言って虐待するつもりなのかい?あぁ、かわいそうなワタシ…(ウソ泣き)」というくらい、これまで社会の厳しさを教えてやってるだけだとか、虐待を虐待と認めさえしなかった毒親の方が、急に、自分が有利になりさえすれば、虐待や人権を最大限にアピールし始めたりもします。
極端に話を振ったり、論点をすり替えたり、善意を逆手にとってきたり、強烈な言葉で揺さぶろうとしたり、さながら、家庭内が国会論戦なのかディール合戦なのか、家族の無償の愛や無条件の愛情とは程遠い惨状に包まれたりもしそうです。
肩肘張らず自然体でドンと構えて、闘牛士のように、無理押ししてくる話や手練手管をかわせないなら、いっそ、離れて暮らす方がお互いにとって心身ともに健全に過ごせるかと思われますし、私のように、毒親ラボなどとして毒を愛で制するなどといった「たわごと」っぽく見えることを言う真似っこはしない方がいいと思います。
ふと、古くからの言葉ですが、「木鶏」(もっけい)という言葉が脳裏をよぎったりします。
「木鶏」: 少しも動じない最強の闘鶏。また、強さを秘め、敵に対してまったく動じないことのたとえ。(出典:デジタル大辞泉 https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E9%B6%8F-682799)
小さい頃より、毒親に特殊部隊の訓練を受けるかの如く、家庭内で殺伐としたサバイバル訓練・精神的なトレーニングを積まされたというか、乗り越えて行かないと生きられない状態に置かれたような感じですが、おかげで、毒親の様々な手練手管を学べたのかもしれません(他の方には一切おすすめしません。社会は厳しいという言葉がある一方で、家庭内が社会より一番厳しいというか過酷なスパイ潜入訓練(毒親に自分らしい多様性や個性が見つかると心を「殺害」「拷問」されるような日常)のような場でしたので…)。
国連での多国籍協議ではないですが、自分たちの文化背景・法制度・価値観が通じない相手や、こちらを理解しようとすることさえない相手でも、場合によっては、相手の心のツボというか、ごくわずかでもある程度は毒親なりに理解・対応しようとする部分があったりもします。
そこを責め立てるというより、合理的配慮というか人権尊重というか、慎重に丁寧にしつつ、相手がなんとなく気づくようにじんわりと働きかけて、ダメージを多少は軽減できる面もあり得るかと思われます。
共感や相互理解などの期待を抱くと絶望・失望・激情での感情的対応で、子の方が心身ともにダメージを負ったり、人権侵害・違法/不適切行為に暴走したりしかねませんので、あまり期待せず、でも、完全にすべてをあきらめ切らずに対応するのも一手ではあろうかと思われます。
ふと、キリスト教徒ではないのですが、結婚式のチャペルで耳にした聖書の一説が脳裏をよぎります。
聖書(コリント前書13章)
『愛は寛容にして慈悲あり 愛はねたまず 愛は誇らず 高ぶらず 非礼を行わず
おのれの利を求めず 憤らず 人の悪を思わず 不義を喜ばずして まことの喜ぶところを喜び
おおよそ事忍び おおよそ事信じ おおよそ事望み おおよそ事耐うるなり 愛はいつまでも絶ゆることなし』
過剰な期待や過剰な忍耐はしんどいですしムリがあったりしますので、毒親問題の対応も「おおよそ」の範囲でほどほどにしつつ、よからぬことを喜んだり企てず、お互いの人権擁護を念頭にして愛をもって毒を制していければより良いのかもなぁ、と思ったりしております。
善意を逆手にとられて勝手気ままに支配されたいですか?
毒親のルールを毒親に適用したら、毒親は幸せなんでしょうか?
逆上して被害者側の子が加害者になったりしてないですか?
毒親が仮に「私はいっぱい泣いてつらい思いをしてきた」としても、それを根拠に、子に同じ目にあわせたり復讐心を子にぶつけていいわけではない
子を、誰かの身代わりに、毒親の生贄や不満解消のはけ口にしていいわけではない…
「私はいっぱい泣いてつらい思いをしてきた」から「毒親となって何の罪もない子に復讐・虐待・同じ目にあわせる」ことが許される法令はあるのでしょうか?
それは、正当な根拠になるのでしょうかか?
子を生贄として、もう逝去していない人の代わりに毒親(かつての被害者)が復讐心を満たす都合よく奴隷的な存在として扱って良いのでしょうか?
毒親もかつては被害者の場合があったりしますが、毒親は自分で過去の心の傷を心療内科の受診やカウンセリングなどで癒すべきものであって、子を復讐心を満たす生贄や都合の良い奴隷的な存在にしていいものではありません。
世代を超えて、人権・違法/不適切行為などによる子への負の影響を受け継ぐ必要もなければ、そうすべきものでもありません。
できる限り、子が毒親を攻撃・非難・つるしあげするといった人権侵害で応戦するのではなく、毒親がみずから心の深いところにある傷を癒す支援(過去の毒親自身が受けた人権侵害の救済を遅まきながらもこれから支援)ができればより良いのかもしれません(心療内科の受診時のお話しやカウンセリングの際に、あるがままに攻撃や非難やつるしあげたいといった思いはオープンに明かしてもいいと思いますが…)
ただ、毒親の心の傷を癒してあげなければ…という思いは、必ずしも子の精神面で健全な状況になるとは言い切れないように思われますので、あくまでも余裕があればのお話しだったり、大まかになんとなく頭の片隅に置いておいてみる程度で十分ではないかと思われます。
できる限り、子も毒親からの心の傷を癒し、毒親のことで頭がいっぱい・心が苦しい状態から、これから自分らしく生きるスタートを前にして毒親のことがどうでもよく感じられる状態や毒親なりにマシなひとときもあったなぁと振り返れる状態にしていけたり、毒親も心の深いところに凝り固まって深い闇になっているような心の傷をときほぐして癒し、子と毒親がそれぞれ別の場所で暮らしても、同じ場所で暮らしても、今までと全く同じ生き方過ごし方ではなく少しずつでもお互いに違った生き方過ごし方になっていければいいと思ったりします。
自分も相手も100%ガラッと別人のように変わることは現実的ではなくても、分度器で言えば、1度の角度の違い(生き方過ごし方の方向性の少しの違い)も、積み重ねると大きな開きになってくるかと思われます。
分度器の1度の開きは、積み重ねていくと、大きな開きになる…
ほんのちょっと変えていければ、それだけでも十分かもしれない…
「毒親災害」サバイバルの3つの対応: ①「避難する」、②「相談する」、③「線引きする」
津波が来るとなったら、「津波に立ち向かおう!」「津波を堰き止めよう!」というわけにはいきませんよね。
子として何も悪いことをしていなくても、場合によっては、みずから人生を卒業するところまで追い詰められかねない一生涯ついて回りかねない「毒親災害」で、子がサバイバル上では、「3つの対応」をご案内したりしています。
①「避難する」: 心身の距離や時間をおく、別々の場所で生きるだけでなく、一時的に、別の場所に支障ない範囲で移動してみる、津波を見物に行かないように毒親にわざわざ近づいていかない、など
②「相談する」: 自分だけでは頭の整理がつかない場合もあれば、頭の整理はついているけど公的な支援策ってどんなことがあるのか知らない場合や、共感を得たい場合・心を打ち明けたい場合など、相談窓口や支援団体などの情報を得る際にも、まずは相談してみても良いのではないでしょうか?
③「線引きする」: 被害者ヅラ・いい人ヅラをしたい正当化が大好きな毒親の場合、すべて、子の責任・「あなたのためにやってること」・世の中はこういうもの、といった感じで、子に自責の念を植え付けてきたり、子の方が悪いかのようにふるまうケースもあり得ます。
でも、あなたは悪くない。
心身の傷を見て、自分のせいだ、ではなく、これは毒親のせいで自分のせいではない、と、自分と毒親の間に線を引いておくと良いかもしれません。
無責任・身勝手・人権侵害が大好物な毒親の責任を、あなたが背負ったり尻ぬぐいしたりしなくていいのではないでしょうか?
でも、どうしても毒親と直接の対峙が必要な際は、相手を責め立てても逆に被害者ヅラ大好物な毒親だと、カスタマーハラスメントをするお客さんのように、聞いてくれているのかと思ったら揚げ足を取るための言葉尻を必死に探しているだけで、逆に、あなたを揚げ足を取って責め立ててきたりして絶望するケースもあり得そうです。
なので、冷静に言葉遣いも丁寧に話したり、家庭外の方々に針小棒大な毒親が被害者になる壮大なストーリーづくりであなたが悪者として悲劇のヒロインな毒親ものがたり、ということも避けるため、録音・録画なども必要に応じてやっておくと良いのかもしれません。
テロ対策の指導をしておりましても、立ち向かうのはやむを得ない場合のみで、まず、避難を優先するよう指導しております。
津波をひとりで堰き止められますか?
避難して相談して少し落ち着きませんか?
毒親は毒親、自分は自分、正しいことは正しく、間違っていることは間違っている、ということで良いのではないでしょうか?
「世の中は、良くも悪くも、不公平」: 不公平を公正公平に毅然としつつ前向きに尊重して受け入れ合うことで、多様性ある人権が育まれる。偏見や差別を持って不公平を後ろ向きに忌み嫌って排除したり、世の中は不公平で当然だから黙って我慢しろと強要したりすると、多様性なく人権も損なわれる。
「こんなの、不公平だよ!」っていうことが、良い面でもそうでない面でも、世の中に満ちているからこそ、多様性の公平公正な尊重と受け入れあい(ダイバーシティ・エクイティ & インクルージョン (DEI))が大切なのかも…
「不公平」というと、ネガティブなイメージを思い浮かべそうですが、必ずしもネガティブな方向にだけ「不公平」とは限らず、非常に恵まれている面で「不公平」だったり、非常にハンディキャップとなる面で「不公平」と感じたりすることもありそうです。
「障がいがある」というと不公平なことをイメージされるかもしれませんが、「他の多くの人が一般的にできるとされることができない」ことと、その障がいの反面で「他のほとんどの人が一般的にできない高いレベルのことをごく自然に対応できる」ことがあった場合、「できないこと」の面だけでネガティブに「不公平」としつつ、「他の人にはなかなかできないことを自然に対応できる」面を「不公平」としない、というのはどうなのかと思ったりもします。
神経発達症(旧称:発達障がい)でいわゆる「定型発達」の枠にははまらないというか、「一般的にできて当然でしょ!」と言われかねないことができない一方で、他の部分では極めて優秀な能力を備えていたりすることもあったりします。
障がいだけでなく、経済力の差や、運動能力の差や、対人コミュニケーション能力の差など、世の中にはいろんな「違い」や「差」の形をした「不公平」がたくさんあるのかもしれません。
「違いがあるからダメ」とか、「みんなと同じでないからダメ」(そもそも「みんな」って何をもって一般化しているのか不明ですが…)とか、「ダメ」として「違い」や「差」といった個性・多様性をわざわざネガティブに定義づけ・決めつけする必要があるのでしょうか?他の人と同じにならないといけないのでしょうか?
同じようにいられることを求めて枠の中に閉じこもるように個性・多様性の芽を自ら摘んでしまわずとも、また、毒親によって毒親の身勝手に考え決めつけた「普通」という枠内に収まらずとも、自分らしく生きて行くことは、体罰や虐待や負の影響を与えられなければならないような重罪なのでしょうか?
就職活動をする頃になって、急に、面接などで自分らしさとか他の人ではなくあなたでなければならない独自性を問われても、身勝手な枠にはめて悦に入る毒親は責任をとったり深々と謝罪したりするのでしょうか?
「違い」や「差」があれば、「ダメ」とネガティブなレッテルを貼らずとも、「この部分は苦手なんだね~。でも、この部分は得意だったり好きで夢中になって取り組めるんだね~」といった感じで、「自分の得意なところを伸ばしていけるといいね~」くらい、言ってあげたり支えてあげたりすることは罪なんでしょうか?
戸村版の整理として、「教育」=「多様性を公平公正に本人の意志・希望を尊重してより良き方向にお導きするサポート」といったお話しをしていますが、「ダメ」と決めつけ一方的な断定・評価を与えることで、「教化」=「刷り込み・洗脳・思想統制などによる画一化」を毒親などの都合の良い枠にはめて進めてしまっていないか心配になります。
「これくらいできなきゃダメ」という一言の中に、無意識の内に、障がい者差別や偏見や人権侵害などが潜んでいる可能性はないのでしょうか?
「これくらい」のことが「難しい」面もありつつ、その他の別のことは自然とできたり取り組んでいて楽しかったりするという「不公平」って、前向きに公正公平に尊重して受け入れ合えば、それが人権尊重のもとでの「多様性」になるのではないかと思ったりしています。
だからといって、毒親がすぐ飛びつきそうかもしれませんが、「ほら見ろ、だから、俺は/私は、あなたに不公平に接しているんだ!」という、大前提の公正公平でも相手の尊重も受け入れあいもなく、家庭内の優越的地位の濫用で身勝手に押し付け・決めつけ・ムリの押し通しを、すぐ正当化・美化したくなるケースがありそうですが、そうすればするほど、毒親が自分で自分があるあるな毒親ですと証明するようなものかもしれません。
問題なのは、「違い」や「差」があったり「不公平」と感じることに問題があるのではなく、「違い」や「差」や「不公平」なことを、人権・法令などの面から公平公正に尊重して受け入れ合えない状態に問題があるのかもしれません。
また、「違い」や「差」や「不公平」な状態とされるようなことが「ダメ」なんだとしたら、成績が超優秀で飛びぬけて他の生徒にぶっちぎりの「差」をつける生徒や、オリンピックで他の選手に差をつけて勝った金メダリストや、他と「違い」のある画期的な絵画を描いて金賞を受賞したアーティストは、学校やスタジアムや美術界などから撲滅させられるような大罪人ということになってしまうのでしょうか?
「みんなで協力しあいましょうね」ということと、「みんなと違ったことをしてはダメ」というのは、必ずしも同じことではないように思われます。
また、一見して、「みんなで協力しあいましょうね」というと良いことのように思われがちですが、犯罪現場で犯人どうしが「みんなで協力しあって金庫を運び出しましょうね、嘘の供述で乗り切りましょうね」といった場合、「おおっ、協調性があって良い人たちだ」となるんでしょうか?(犯罪者集団における掟といった面で、反社会的勢力においては良い評価が得られるのかもしれませんが…)
「不公平」に打ちひしがれるだけである必要もなく、良き面での「不公平」もあれば、悪しき面での「不公平」もあれば、「不公平だけど特に支障はない」こともあるのかもしれません。
また、「不公平」を改める場合でも、「テロ型の正義」((C)戸村智憲)を振りかざして、「正義」のためなら何をしてもいいという身勝手な対応ではなく、問題を改めるにあたっても、人権・法令・手続きの観点から妥当なステップを踏んでいくことが求められているように思われます。(※息子にもよくいうことですが、「正義」といった場合、その「正義」は、どんな立場の誰にとってどう都合の良いどんな状態・状況が正義と言っているのか、という点は、慎重にチェックが必要かと思われます)
「不公平」って、もしかしたら、どうとらえるか・どうプラスに活かすか次第で変わる言葉なのかも?
「不公平」だったら、いかなるどんな場合でも絶対的に「ダメ」なんですか?
どうせなら、自分らしく、いろんなことをプラスに転換していったり、自分らしい芽を育てていったらいいんじゃないですか?
身勝手な「幸せ」を「与える」こととその「幸せ」を「ありがたいと思え」との圧に忖度させられる: 幸せは与える・与えられるものというより「幸せは共に寄り添って築きあう」もの
「ダサいTシャツをもらって、幸せだと思え、って言われてもなぁ~」
幸せって与えられるものではなく、おそらく、共に築きあうものなのではないかなぁ~と思ったりします。
ダサいTシャツを与えられて、そのTシャツをもらえることを幸せだと思え、というのは、どこか思想統制のようですし、幸せを感じる側の感情や価値観や個性を全否定するようなものにも見受けれそうです。
与えられるのが「Tシャツ」ではなく「進路」という「敷かれた線路」だった場合、「あなたのためを思って」「こうするのがあなたにとって幸せなのよ」と、勝手に決めつけられ敷かれた線路の上を走らされるのって、子にとって幸せなのでしょうか?
子の個性・多様性・意志・希望など、そういったものを全否定することは、「教育」ではなくもはや「教化」(インドクトリネーション: 刷り込み・洗脳・思想統制などでの画一化)ではないかと思われます。
相手への共感・多様性の理解などが乏しいというのは、毒親あるあるな感じもしそうですが、毒親かどうかにかかわらず、同じ人権も感情もある人間どうしとして、そういった対応はいかがなものかなぁ~と懸念されます。
ここで、「与える」ことが悪いことなのではなく、それ以前に、相手の個性・多様性・意志・希望などを全否定や無視して押し付けることが問題であって、忖度なく親にとって都合の良し悪しによらず自由闊達に対話できる状況において、相手の個性・多様性・意志・希望などに応じたものを「与える」(プレゼントする)のなら、決して「与える」ことが悪いことではなく、無条件での愛情の形(の1形態)として、プレゼントは幸せをもたらし得るものではないかと思われます。
毒親を見ていて思うことですが、「これが正しい」「正しいことを言っているんだ!」という際に、その大前提(人権・多様性の公正公平な尊重と受け入れあいなど)や総合的な観点が欠落していて、微細な部分のみをもって「正しい」と主張していることがあるように見受けられます。
「合成の誤謬」(ごうせいのごびゅう)という用語がありますが、個々の微細なところでは1つ1つが「正しい」と言い得ることであっても、それがあわさって全体的には間違いや悪い結果に導くものとなってしまう、ということが、毒親の主張する「正しさ」の中に見受けられるような気もします。
また、「ほら見ろ!俺/私の言ったことが正しいんだ!」という際に、問題は、100回の内で98~99回くらいは大きな問題や総合的・長期的に大きなダメージや傷跡を残す言動がありながら、その内のわずか1~2回だけ「正しい」結果となった際に、鬼の首を取ったように、いつも自分は絶対的に正しいのだ、と誇示して触れ回るようなことがあったりもします。
逆に、その100回の内、98~99回くらい諫め・進言し・注意を促した子の方を悪者扱いしたり無視したり、思春期であれば、「反抗期だから親に反抗してそう言っている」と勝手に決めつけたりして、全体的に悲しい結果へと邁進するような毒親もいそうです。
そんな状況でも、「与える側にさえいれば、何をやっても、幸せをもたらした絶対的に善なる存在なんだ」と、勝手に思い込み決めつけていられる毒親だとすると、結局、子の個性・多様性・意志・希望などはどうでもよく、毒親のストライクゾーンの当てはめ続けることが子の幸せだとさえ思い込みそうで、どこか独裁国家のトップのような状態にも思われます。
私の息子には、親が敷いたレールの上を走るというより、息子の個性・多様性・意志・希望などに沿って、息子の進みたい方向に道や線路が無ければ、息子の方向性に沿って「親方、こっちの方向に道/線路を作ればいいんですね。」とせっせと準備して、「親方、できましたぜ」という時には、息子の興味が変わっていて方向転換で別の道/線路を作る、というようなこともありつつ、ムリやり押し付けるようなことは避けていたりします。
世界人権宣言の底流にある重要メッセージとして、ムリやりやらせるのではなく自然とできる状況を整える、ということがあります。
逆に、毒親の様子からは、ムリやりやらせておいて不自然で悲しい結果となったら子を非難しまくる、というような、無茶苦茶な状態を強いているような感じもしそうです。
ちなみに、コロナ渦中(COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の世界的な大流行(パンデミック)の際、小学校の一斉休校などもありましたが、休校中、「パパ学校」((C)戸村智憲)として、無理やりとか押し付けとか詰め込みでない家庭内教育をしてみたりしておりました。
「パパ学校」では、そもそも、決められたことを決められた通りにするのではなく、学校のカリキュラムなどは尊重しつつ、その日に何からやりたいかを、息子が教科名を書いた付箋を息子の好きな順にして貼って時間割をつくることから始めたりしていました。
また、無理やりやらせるのではなく、息子の興味や関心事に沿って、その興味や関心の対象の中にある学びの要素を活かして、親も子も一緒に調べたり学びあったりしておりました。
外出できない際は、オンラインゲーム(フォートナイト)に興味を持った際、ゲーム中に出てくるアイテムの英単語、ゲーム進行で常に表示されているマップ上の東西南北(方位)、敵と戦う際に一緒に作戦を考えて息子のアイデアを尊重して敵を倒す協調行動など、1つのゲームですら様々な内容の学びを得ることもできました。
家庭科も「~を作りなさい」ではなく、「一緒になんか作ろうか?どんなのを作ってみたい?」というところから、「じゃあ、何があったら良さそうかなぁ?」とか、わからないところは「じゃあ、ネットで調べてみようか」と一緒に調べる(というか知っていることがあってもあえて一緒に調べる)といった具合でした。
その過程を通じて息子と一緒に感じた幸せは、「学びを与える」ことによるものではなく、「共に同じ目線で取り組んで築いた幸せ」や「一緒に探し出した宝探しのような幸せの発見・発掘」だったように思います。
そう思いつつも、いつでも誰でも加害者になり得る毒親に自分がなっていないか、常に、自らを省みながら、慢心なきよう気を付けるようにしています。
また、高学歴だったり高い社会的地位といったようなもののある方の場合、「黙って俺/私の言う通り同じようにしていれば成功して幸せになれるんだから、言う通りにしておけ(与えた指示を幸せだと思って飲み込め)」というような、相手のことを尊重できないワナにハマりやすかったりするかもしれず、賢い人・優秀な人・社会的地位というようなものの高い方ほど気を付けるべきかもしれません。
「あ、その幸せはいらないです」といわれて逆上したりしてませんか?
何を幸せと感じるかは、相手次第ではないですか?
自分と同じように同じことを幸せと感じなかったら敵視するって、独裁者か何かですか?
毒親には毒親なりの幸福(ただし他者の人権侵害等にあたらない範囲で)を追求する権利があり、子には毒親と心や住む場所などの距離が離れても一緒にいても、子なりの幸福を追求する権利も当然にある
お互いの「幸せ」のために、必要に応じて「住み分け」してもいいんじゃないですか?
刑務所の中にいる受刑者にも、受刑者なりに許される範囲での自由もあれば、受刑者や刑務所を出てからの人生でもその人なりに幸せを追い求める権利があります。
毒親にも、毒親なりに幸せを追求する権利があります。
それは、あくまでも、子の人権や公益・公共の福祉・法令等の観点から、人権侵害や公益性から問題となることや法令等に違反したり不適切な対応が無い範囲においてのお話しです。
子も、子なりに幸せを追求する権利もありますし、毒親などからの人権侵害から救済措置をとっていくことも、人権上の対応として当然に認め得ることです。
毒親と距離を置く(別々に暮らす場合もあれば、同居していても心の距離をほど良くとる場合もあったりします)、時間を分ける(同じ時間帯・タイミングでかちあわないようにして心身のダメージを減らすなど)、生活スペースを分ける、毒親は毒親として子は子として線引きする、といった「住み分け」「棲み分け」をしていくのも一手かと思われます。
毒親にとっての幸せは、場合によっては、孤立や自滅や破壊性を帯びたものかもれませんので、「火の粉は払って延焼を防ぐ」とか、「毒親の生命に危機については最低限の対応だけは行う」といったことに徹することで、子の防衛を図ることも必要かもしれません。
仮に、「それじゃあ、孤立しちゃうよ」とか、「それだと、誰からも愛想をつかされるんじゃないの?」と思えることでも、毒親にとっては、孤立したり愛想をつかされたりしても、毒親の妄想的な世界ではそれこそが幸せでもあるのでしょうから、与えられることを幸せだと思わされて苦しんだ子の側が、ふと、毒親と同じように、「幸せ」を与え押し付けてもいかがなものかと思ったり致します。
だからといって、毒親が、子に危害を加えるのが幸せ、とか、子に体罰を与え虐待するのが幸せ、といっても、それは人権上も法令上も許容し得ないものですので、毒親の「その幸せの部分」にはお付き合いしないでいい(そこにあわせる奴隷的な義務は一切ない)ということになりそうです。
絶海の孤島でたった一人で生きたい、ということが幸せなのであれば、その幸せは、何か人権上や法令上の問題などがなければ、追求しても良いものと考えられそうですので、毒親が孤立することがダメなことは特にないようにも思われます。
幸せも多様性がありますし、ある人にとっての幸せは別の人にとっては苦痛でしかないということもあり得ます。
ムリに画一化したり一緒にあわせなくても、それぞれの道をそれぞれのペースでそれぞれの歩み方と歩む場所で、幸せに向けて暮らしていけばいいように思われます。
親は無くとも子は育つ、なら、子は別の所でいても親はそれなりに暮らす、ということでいいんじゃないですか?
戸村語録: ①幸せ・恵まれた心理的安全性に戸惑う「カクタス・パラドックス」、②「毒親に荒らされた荒地ならトマトを育てよう」、③「うるおいのない毒親砂漠なら砂漠にオアシスをつくってしまおう」
見返りを求めない無条件の愛情に慣れていないと、愛情で満たされると戸惑っちゃうこともあるかも…
【戸村語録①: 幸せ・恵まれた心理的安全性に戸惑う「カクタス・パラドックス」】
ただ、自分のあるがままにここにいて、それでいい。
そんな尊重されて見返りも求められない無条件の愛情に包まれると、逆に戸惑ってしまうようなことも、毒親のもとで育った子としてはあり得そうです。
幸せって、虐待や体罰や負の影響を代償として差し出す代わりに与えられるものでなくていいの?
そんな疑問すらわいてきそうです。
カクタス・パラドックス(直訳すればサボテンの逆説(?))と名付けましたが、砂漠で水分・養分も十分でない過酷な環境で育ったサボテンにとっては、水分・養分たっぷりの土壌だと、逆に、「水分とか多くてとまどっちゃう」状況になったりしそうで、つい、過酷な厳しい生育環境の方が過ごしやすい(しっとりと潤った土壌環境が逆に居心地が悪くすら思える)ようになってしまうようなこと。
【戸村語録②: 「毒親に荒らされた荒地ならトマトを育てよう」】
毒親にさんざん自分らしさの種子をまき芽を育てては、土壌ごと爆撃され、芽を育てることすら否定されてきたりしましたが、荒らされたなら、いっそ、荒れた土地ほど甘い実が育つトマトを育ててみよう、という、ネガティブなことをプラスに転じていく思いを表してみました。
私自身は、戸村智憲というフィルターを通して、一般的にはネガティブなこと・えぐいこと・過酷で耐えられないようなことを、プラスに転じて行ける要素を見出していって、芯をもちつつしなやかに進化・適応していこうと思いながら過ごしてきました。
【戸村語録③: 「うるおいのない毒親砂漠なら砂漠にオアシスをつくってしまおう」】
毒親による過酷な砂漠のような生育環境で、オアシスを探して途方に暮れそうになりますが、オアシスをみつけても毒親が汚染したりしそうですので、こっそり自分の幸せ・楽しみ・生きがいとなるオアシスを、家庭の中というより自分の心の中に作ってしまえば、「住めば都」というじゃないか、と、勝手に自分でそう思ってやりすごしてきたりしました。
そして、いつか、自分が親になる時は、毒親ではなくオアシスのように、できれば、砂漠のオアシスというより、潤いのある土壌の広がる穏やかな気候の地に癒しの泉となれるようにしたいなぁと、小さい頃から思ってきたりしました。
親が職場でのハラスメント被害や人権侵害で苦しむ心身を、圧倒的な家庭内での優越的地位をもって、子を犠牲・生贄・はけ口にして解消しないで済むように「ビジネスと人権」対応に取り組む
「それは家庭の問題だろ!」という家庭から出勤している親が、職場でハラスメント被害や人権侵害などで不満をためて家庭で解消していたら、職場の問題って、家庭での虐待や毒親問題に直結していたりするかも…
仕事とプライベートを分けて家庭に仕事を持ち込まない、といったライフスタイルは、なんかデキル社会人っぽくて素敵な感じもします。
でも、本当に、仕事とプライベート(特に家庭)って、スパッと見事に分けきれるものでしょうか?
「幼いうちの子がなんか高熱を出して苦しんでいます。でも、オレ/ワタシは、仕事と家庭はスパッと分けているので、家族3人の家庭で、夫/妻も出勤してるけど、子どもはどうせ寝てるしかないので、特に病院につれていくことも必要ないでしょうし、子どもはひとりで家においてきています。どうです?ワタシ/オレって、ビジネスとプライベートを分けるデキル人でしょ?」
という感じだと、家庭でのネグレクトという以前に、高熱で苦しむ幼い子の気持ちになると、しんどくて苦しくて不安な時に、親がそばにいようとすらしてくれず、逆に、放置することを良しとしている毒親、という感じがして、冒頭の「仕事とプライベートを分けるデキル人」のイメージと、幼い子が苦しんでもそばにいたり医療サポートを受けられるようにしたりせず、「仕事とプライベートを分ける人」が、いついかなる時も「良い」ものとは限らないような感じがします。
逆に、職場で、「小1のうちの子が高熱で、学校に迎えに行って病院に連れて行ってあげたいので、早退させてもらえないでしょうか?」と申し出た親に、その上司が、「バカ言ってんじゃねぇ!仕事場にプライベートを持ち込んで甘えてんじゃねぇか?」とでも言われたり、「このクソ忙しい時に早退って、さぞ、いいご身分なんだね!」と冷たく言い放たれたりしたら、これって、親にハラスメントや人権侵害などの問題を与えておいて、家庭で職場での被害・人権侵害・不条理などを、子を犠牲・生贄・はけ口にして解消させてしまう状況に、直接的・間接的に職場や会社が加担してしまっているようにも思われ得ます。
「ビジネスと人権」が声高に叫ばれる一方で、ビジネスが家庭に及ぼす人権上の問題や波及効果って、どこまでしっかり取り組まれているのか、ある程度の産休・育休・介護休業などの制度の陰にひっそり潜んでいる問題を明確に意識して取り組まれているのか、なかなか疑問なところかもしれません。
残業問題の対策・過重労働対策・時短などで、上司が口先介入として「残業せず早く帰れよ」と、そもそも、残業しないとクリアできないような状況を課しておいて、「オレ/ワタシは残業せず早く帰れと言ったのに、それでも残って仕事をしていた部下が悪い!」ということって、少なからず職場で見受けられたりします。
世界人権宣言の底流にある重要メッセージとして、「無理やりやらせるのではなく自然とできる状況を整える」という原則があります。
つまり、「ビジネスと人権」に沿って、そもそも残業なしでも仕事を回していける状況を作れるかどうかは、経営陣や上司の力量が問われるものであって、経営陣や上司の責任逃れとして部下を犠牲・生贄・はけ口に奴隷的に利用していいものではありません。
そもそも、残業せずに会社や上司からの指示・目標が達成できるDX推進や生産性の高く保てる状態などを整えた上で、「それでも」残業してダラダラしていたから問題だ、という場合と、そもそも、残業抜きに会社や上司からの指示・目標が達成できない状況で、「それでも」残業してでも真面目の取り組もうとする者を悪者扱いしているのって、よほど、経営陣・上司みずから自分で自分の力量不足を立証したくてしょうがないのかもしれません。
職場における優越的地位の濫用で上意下達で無理難題を押し付ける状況って、職場の心理的安全性が育まれにくそうですし、職場や社会でハラスメントでも人権侵害でも唯々諾々と上意下達で従うのが規範だ、無理難題を目下の者に押し付けるのが社会通念だ、という人権教育ならぬ「人権侵害推進教育」を受け続けさせられるような日々って、職場から家庭に帰ってきた部下という名の親が毒親になり果てるのに十分な毒を注がれ続けているようなものかもしれません。
家庭から出社した役職員は、家庭に帰宅する(そうでない場合もあり得ますが…)わけですし、コロナ渦中(COVID-19:新型コロナウイルス感染症の渦中)以降は、特に、テレワーク・リモートワークで家庭が職場になっていたりもするわけです。
わざと狭小な捉え方で歪んだ対応をして「ビジネスと人権」に取組んでいるように偽装する会社/職場や経営陣や上司なのでなければ、職場と家庭って、ある程度は密接に連携していることに気を付けておく方が良いように思われます。
そもそも、会社が役職員からお借りする「労働力」というリソースを癒しでメンテナンスしたり充実させる場が「家庭」でもあり、職場でのハラスメントや人権侵害などの不満・苦しみ・うっぷんを、家庭で子どもを犠牲・生贄・はけ口にして解消させてしらんぷりではなく、そもそも、家庭にそういった不満・苦しみ・うっぷんなどを持ち帰らせないように、職場でのハラスメント対策・人権侵害の予防や人権救済に力を尽くしてはじめて「ビジネスと人権」に真摯に取り組む企業として認識されるように思ったりします。
「それはプライベートなことですから…」と、仕事に起因する国民的アイドルさんと職員さんの性暴力問題が職場で放置され、人権デューデリジェンスも実施して万全を期していたはずの某メディアで「ビジネスと人権」の重大問題が発生したことは、いろいろな報道や第三者報告書公表などでも読み取れるところです。
そもそも、職場で、それこそ、「ビジネスと人権」がビジネスシーンを通じて社会的問題解消へと導いていくことが重要であるように、職場でハラスメント被害や人絹侵害なく、役職員が家庭に笑顔で帰宅できる支援を行っていくことが、職場でも家庭でも部下や親として幸せになりあうために重要なことのように感じられます。
登山だと、山で出たゴミを持ち帰って捨てようねって言われるけど、職場だと、職場の人権侵害などのネガティブな影響を家庭に持ち帰らせて子どもも家庭も勝手につぶれても職場に影響出さないでね、っていう状態でいいのかな?そんな会社に人は集まるの?離職しようと思いやすくならないかな?
そもそも、「ゴミを出さない/減らす」ことが大切なんじゃないのかな?
「毒親なぞかけ」: 「招福・楽しく学びを得る」ビジネス噺家こと「商福亭法楽(しょうふくていほうらく)」が、毒親テーマでなぞかけやってみました(世を忍ぶ仮の姿が「戸村智憲」なのかも!?)
【毒親なぞかけ】
ととのいました~!
「毒親の子育て」あるある、とかけて
亀の赤ちゃんがたくさん産まれて困った時の問いかけ、ととく。
その心は、どちらも、「こがめいる」 (子が滅入る、子ガメいる?)
商福亭法楽
オレ/ワタシって毒親なのかも?と思ったら…
「やべぇ、オレ/ワタシって毒親なのかも?大変なことになるのか!?」とあわてなくても良さそうです…。
こんなついやってしまいがち(?)なことも虐待なの?児童虐待防止法って見てたら自分が該当しそうで…、とか、毒親って子に理解されたら復讐されるんじゃないか?などといった感じって、毒親が自分で気づく・振り返る時にありそうなことかもしれません。
親として子の善意や好意を逆手にとって悪用してきたり、心身を痛めつけたり、勝手気ままにふるまいつつも、親が被害者ヅラ・善人ヅラをして子に優越したままのポジションをキープしてきたり、毒親がかつて毒親の被害者である子だった時の復讐心や不公平感を今は子を犠牲・生贄・はけ口としてぶつけていたりすると、とんでもない仕返し・復習・報復がくるのでは?とか、自分が警察につかまったりするのでは?という方もいらっしゃるかもしれません。
刑事事件になるような暴行などや、児童相談所が緊急に介入するようなケースの場合は、たしかに、親がつかまったり被告として裁判を受けることになったりするようなことはあり得るかもしれません。
ただ、「自分は毒親なのかも/毒親だったのかも」と自ら進んで気付けている方であれば、もし今も虐待にあたるようなことや子への負の影響を及ぼし続けているなら、それらはそれ以上やらないように止めて、「これから」毒親ではなく、また、いきなり100%良い親でなくても、「悪くも良くもない親」にはなれるようにしていかれればいいように思います。
毒親側がかつての復讐心・不公平感を身勝手な正当化で押し通してきた分、同じようにやり返されるのでは?とおびえる必要はないと思います。
それって、悪意を持って復讐のために不公平感を解消するためにあやめた殺人犯が、警察やご遺族や刑務官などが同じようにあやめてくるのか、といえば、殺人犯にも裁判を受ける権利や弁護士をつける権利もありますので、全く同じような目にあうどころか、手錠はかけられても保護された状態で、ご遺族から手厚く保護された殺人犯って不公平だし復讐してやる、といって、あやめられるようなことはよほど珍しいケースでなければあり得ないでしょう。
もし、もしかしたら毒親だったかもなぁ~、悪かったなぁ~、と思うことがあるなら、仮に子に直接お詫びできなかったり、毒親なりのプライドなどでそんなことできない、という感じだったりしても、少なくとも、身体的/心理的/性的/経済的な虐待やネグレクトは今すぐやめて、「これから」同じことをしないようにしておければいいと思われます。
虐待のみならず、子への負の影響はさまざまな形態で毒親問題を起こしてしまっているケースがありますので、少しずつでもポジティブな方向に進めるならそれでいいように思われます。
逆に、変に開き直って、今まで通り頑として変えようとせず、あるいは、今まで以上に激化するようであれば、残念ながら、警察や児童相談所などの外部の介入で問題解消を進めるより他はなさそうでもあり、毒親が自分で自分の首をもっと厳しく締め上げるようなことになりそうでもあります。
毒親が何かとてつもないことを償わなければならないかといえば、そういう可能性はあり得ますが、おおよそ、過去の取り返しのつかない心身の傷や負の影響で子に失わせた多くのチャンスや物やお金なども含め、今さらどうこう口先で言っても、却って、「詫びる・説明するつもりでの身勝手な言い訳」で辟易して「それなら、いっそ、何も言わないでいてくれた方が良かった」という感じにもなりかねません。
毒親が償うとすれば、虐待をやめ、負の影響をゼロか少しでも少なくし、「悪くは無くても良いわけでもない親」(少なくとも毒親からは脱却した状態)となり、できるなら、我が子にかなえられなかったことだとしても地域社会の子が虐待などを受けていたら児童相談所に連絡して助けの手が届くようにする、ということくらいかもしれません。
もちろん、毒親側というより毒親の被害者側の子としてみた場合で、毒親が中立的に見て子が納得いくお詫びができるのならそれもありでしょうが、「詫びているのにすぐ許さないとは子の分際で…」と思ったりしそうなら、そもそも、身勝手な言い訳にしかならないお詫びやお仕着せがましい償いはしない方がマシかもしれません。
ただ、これまで「毒親」をやってきた方なら、もしかすると、「地域社会にいる別の毒親」を見抜いたり、こっそり虐待するとすればどんな手を使うか、どう隠そうとするかなど、「毒親の手口」は習熟しているかもしれませんよね。
だったら、償いは、これまでの「毒親スキル」を活かして、「これから」社会に虐待や毒親が少しでも減るように、また、少しでも多くの助けを待つ子に救いの手が届くように、そんな償いをしていくことでも十分なのではないでしょうか?
一足飛びにムリのあることでなくても、自分の子は救えず傷つけてしまったとしても、地域社会の他の子をちょっとだけムリのない協力で少しでも多く救えるかもしれません。
心に開けてしまった穴は、お金や物ではなく、邪心なく寄り添う心でしか埋まらない…
お詫びの仕方を間違えて大炎上する謝罪会見のように、謝り方を間違えないように…
自分の子を救えなかったとしても、地域社会の他の子に救いの手が届く協力はできるかも…
児童相談所に「通報」するのはちょっと…。「通報」じゃなくて「お伝え」や「ご報告」してあげてもいいのでは?
「思いやりのある歯止め」をかけてあげてもいいんじゃないですか?
児童相談所虐待対応ダイヤル「189」(全国共通の電話番号で最寄りの児童相談所につながります)に「通報」するって、「もしかして思い違いかも」とか「巻き込まれたくない…」とか「家庭ごとに教育方針も違うし…」という感じで、ためらいがちだったり、かなり勇気が必要だったりしそうですよね。
「通報」じゃなくて、「こんなことを見聞きしました」「こんなことがありました」と「お伝え」や「ご報告」であれば、何か決めつけや偏見で「あの親が悪いに違いない」といったイメージがわきそうな「通報」ではないですので、「189」に電話して、あるがままのことをお伝え・ご報告して差し上げればいいと思います。
それが良い/悪い/どちらともいえないなど、判断や対応は「189」で電話した先の虐待対応のプロが行いますので、空振りかもしれず勘違いかもしれなくても、子の命や子の心があやめられるようなことや、必要な助けの手が届かないままになるより、ちょっとだけ「お伝え」や「ご報告」してもらえればいいように思われます。
児童相談所だけでなくても、警察でしたら暴行や性的虐待などに関わり得る点では「#9110」(いろんな相談ができる警察相談専用電話)もありますし、小中学校ごとにある相談窓口・スクールカウンセラーなどや、市区町村による相談窓口など、さらには、法務省の人権擁護局や、法テラスや各弁護士会の無料法律相談などもあったりしますので、調べてみるといろんな相談先がみつかったりします。
「オレ/ワタシがあの時に電話してお伝え・ご報告しておけば、あの子は助かったかもしれない…」と、心に傷を作って生きるよりも、電話やネット上のお伝え・ご報告で、今日もあの子の笑顔が見られる…という方がいいように思われます。
何かあれば、ちょっと、お伝え・ご報告してみませんか?
空振りでもいいから、救いの手が届くよう、前向きに行動してはどうでしょうか?
すべてがすべて100%正確でもれなく把握できる情報って、そもそも、この世の中にあるんでしょうか?
「通報」じゃなく「お伝え」「ご報告」してみてはどうでしょうか?
毒親が「私は正しいことを言っている」という際の問題点
「正しい」って、何をもって、どんなことを、どんな根拠で、「正しい」って言うかによってどうにでもなるよね?
毒親が「私は正しいことを言っている」という際に、主に、①出発点(前提)が歪んでるパターンや、②思考ステップ(結論に至るまでの途中過程)に飛躍や詭弁などの誤りがあるパターンや、③結論を身勝手に曲解して正しいものとして主張するパターンや、④結論を伝えた際の影響を度外視するパターン(カレーを食べてる時に医学的には正しくても心理的ダメージが尋常ではない「下痢」の話を詳しくするなど)や、⑤「合成の誤謬」となるような全体的に大局的にみるとネガティブでしかないことでも、目先の小局では部分的に多少は正しさがあることをもって、なんでもかんでも絶対的に正しいと主張するパターンなどがあるように見受けられます。
カスタマーハラスメント(昔はハードクレームやクレーマーといった言い方がメインでしたが…)といったものになぞらえれば、とにかく、屁理屈だろうがそもそも理屈も根拠もおかしくても、なんでも半狂乱にでもごり押しでも、言い返してさえいれば反論にすらなっていなくても、自分は正しいもの、という謎ルールで動いている毒親もいたりします。
カスタマーハラスメント行為者でも、法令に違反して開き直る違法行為者でも、また、毒親でも、第三者の客観的で公正公平な場で裁かれるまでは、ひたすら、無理筋でも飛躍があろうとなんであろうと、相手が悪くて自分は絶対的に正しい、勢いで言い返していれば正しい、という感覚なことも見てとれたりします。
しかし、コロッと対応・表情・立場も変えてくるのは、ある程度、上役の方や社会的地位のある方や裁判官など、影響力のある者の前では、急に礼儀正しそうで善人そうに見せたり、逆に、毒親の方が被害者ポジションに立って同情を買いに走ったりして、影響力のある者に対する外面だけは良かったり、加害意識が圧倒的に希薄な被害妄想者のような状態だったり、自分のついた悪態はまるでなくて相手から悪態ばかりつかれたといった、もはや、虚偽・虚言・事実無根のことまで持ち出したりするケースも見受けられます。
子の側としては、「思いやりのある歯止め」をかけて毒親が刑務所に入ること無く済むよう、また、これ以上、悪態も加害も人権侵害も暴走しないよう、適宜、外部の影響力のある方に、あるがままに事実を知らせ、公平公正な外部の目が光るようにして、子への同意や共感や無条件の愛情がなかったとしても、少なくとも、毒親から子への各種虐待・負の影響・人権侵害・加害行為などが緩和されるよう、子の方が懐深く毒親問題を改める上でも毒親の制限される部分がありつつも一定の人権も尊重・擁護をしながら、公正公平な手続きやステップを踏む必要があって、被害者側の方がかなり疲れる状態なのは、毒親問題でも殺人事件のご遺族でも各種訴訟で人権救済などを目指す原告などと似たような状態かもしれません。
「正しい」ことや「正義」って、誰にとってどんな状態でどう都合の良いものなのか、そこに、多様性や人権の尊重があるか、客観的に公正公平なものか、思考ステップや根拠が妥当か、毒親への対応に「復讐心」や「不公平感」や「正当化」で自分が「毒親ダークサイド」に落ちていないかなど、いろいろと留意しておくことがあって、毒親問題の対応は二重三重に子が疲れるように思われます。
「正しい」なら何をどんな根拠でも何でもやっていい、というような「テロ型の正義」は身を滅ぼすかもよ?
「毒親」に悩んだりした時の参考サイトなど
- 「子どもシェルター全国ネットワーク会議」(「子どもシェルター」の掲載一覧あり): 各地で「子どもシェルター」の設立や運営や交流などの支援、子どもの権利保障に向けた活動
- 心のお悩み相談先一覧(一例)(厚労省)
- 『こころの情報サイト』(国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所)
- オンライン・カウンセリング(NCNP病院): 国立精神・神経医療研究センターによる。「ストレス・不安とうまく付き合うためのプログラム」(有料)など
- 【子ども家庭庁】児童相談所一覧: 児童相談所虐待対応ダイヤル「189」(いちはやく)でお住まいの地域の児童相談所に電話がつながる
- 毒親からの避難や転居で住民票を毒親に見られないように役所に相談する場合の「DV等支援措置」: 【総務省】配偶者からの暴力(DV)、ストーカー行為等、児童虐待及びこれらに準ずる行為の被害者の方は、申出によって、住民票の写し等の交付等を制限できます。
- 「法テラス」(日本司法支援センター): 法律的な相談が必要になりそうな場合に…
- やさしい日本語で読む世界人権宣言(谷川俊太郎/アムネスティ・インターナショナル日本訳): 国連広報センター掲載の世界人権宣言をわかりやすくアイコンややさしい日本語でまとめたもの
- 【法務省】「こどもの人権を守りましょう」
- 【子ども家庭庁】児童虐待防止対策: どんなことが児童虐待にあたるかについて4つのパターンや、LINE相談窓口、子どもを守る法令、各種情報あり
- 子どもの虐待防止「オレンジリボン運動」のページ
- 住み込みの仕事求人情報「住み込み求人ナビ(スミナビ)」: 全国の寮・社宅完備の住み込み仕事求人(このスミナビに限らず、よくご自身の自己責任で考え・相談窓口などで相談してみたりしながら、住み込み求人や寮のある求人などを探してみるのも一手)
- いざという時の便利帳(さまざまなお困りごと・お悩みごと・トラブルの対応に…)

